2020 年 4 月 26 日の説教要旨

2020 年 4 月 26 日 第四主日礼拝

説教「罪を赦すことができるお方」

マルコ 2 章 1-12 節

【奇蹟に先だつみことば】

この日、多くの人びとが主イエスのもとに押し寄せていました。主はこのカペナウムで、少し前にペテロの姑をいやし、多くの悪霊を追い出しましたから、人びとの多くはいやしを求めて来たのでしょう。

けれども「イエスは、この人たちにみことばを話しておられた」⑵のでした。語られていたのは、もちろん「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:14)です。ご自身が来られたことによって世界に決定的なチャンスが訪れたこと。今こそ、自分を主人公とする偽りの生き方を捨てて、神さまを主人公とするほんとうの人生へと飛び込むように招いておられたのでした。

【なんという大胆な】

そこへ中風の人を担いだ四人の人がやってきました。ふつうだったら主イエスが語り終え、人びとが帰るのを待つはずです。けれども彼らは待ちません。なんとも大胆で非常識なことをしました。その家の「屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした」(4)のです。

当時のこのあたりの家には外階段がついており、また屋根は平らで屋上テラスのようになっていましたから、簡単に上にあがることができました。また、屋根も木の枝と泥でできていましたから、穴を開けることは難しいことではありません。けれども他人の家を勝手に壊して、主イエスが語られている(いわば)集会の中に病人を送り込むことはめちゃくちゃなことでした。

【彼らの信仰を見て】

しかしイエスは彼らの振る舞いをとがめることはなさいませんでした。「彼らの信仰を見て」⑸とあります。中風というのは脳卒中による手足の麻痺などの後遺症。一刻を争う病というわけではありません。けれども彼らの行動を主イエスは好ましく思われました。

それは彼らの性急さが主イエスの「時は満ちた」という宣言への応答だったからです。今や新しい時代が始まりました。人びとは次つぎに主イエスを信じて生涯を変えられています。

それならば自分たちの寝たきりのこの友人を、主イエスは立ち上がらせてくださるだろう。自分の口で信仰を告白させてくださるだろう。

そうして友人が一刻も早く、神の国に飛び込むことができるようにと願ったのでした。彼らは主イエスが癒し主であるだけではなく世界を回復してくださる救い主であることにおぼろげであっても気づき、急いで福音に応答したのでした。

【あなたの罪は赦された】

このとき居合わせた人びとが期待したのは、主イエスがこの人を直ちに癒すことでした。人びとのなかには、そんな奇蹟を見るために来ていた人もたくさんいたことでしょう。

ところが主イエスは「子よ、あなたの罪は赦された」⑸と言いました。人びとはがっかりしたかも知れません。「口先だけで罪の赦しを宣言することなら、だれにでもできる。われわれは癒しの奇蹟が見たいんだ」と思った人もいたでしょう。けれども人のほんとうの問題は、病そのものではありません。

もちろん病は大きな悩みです。貧困やさまざまなトラブルも。しかし同じような病にかかっていても、神を愛し、まわりの人びとの慰めとなって生きる人びともいれば、そうでない人もいます。

病に勝つというのは、病が治ることなのだろうか、と思うことがあります。父のことをまた語りますが、晩年父は川柳をひねって楽しんでいました。父の作品には、よくわからないものもありしたが、ひらめきが感じられるものもありました。そのなかに母のことを歌ったものがあります。

「ひとり居の妻を案じるタイフーン」。これは父が入院中のときの作品。すでに大腸癌ステージ 4 で手術が受けられず、抗癌剤治療を断ったころのものです。そういえばあの夏大きな台風が来ました。父はがんじょうな病院の大きなガラス窓に吹きつける雨風を見ていたのでしょう。母を思い、母のために祈る姿が目に浮かぶようです。人生には治らない病にかかることもあります。それでも人は愛を注ぎ出して生きることができます。

そのような人生こそ病に勝った人生だと思うのです。主イエスが来られたのはそのためでした。病にあるとき、困難にあるとき、罪の力は私たちの弱みに乗じて、私たちを支配しようとします。私たちを混乱させ、意気消沈させ、あるいは怒りに駆り立てるなどして、神さまから引き離し、たがいから引き離そうとします。

けれども主イエスは、そうして痛みにうめく私たちをほうっおくことができなくて、この世界に来てくださいました。病やさまざまなできごとに苦しみ、分断され、絶望を味わう私たちを、ただ見ていることができなかったのです。だからご自分が苦しみ、父との分断され、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と絶望してくださったのでした。友人の牧師が日本赤十字社のホームページを教えてくれました。

そこにはコロナウィルスが怖いのは「3つの“感染症”」があるからだとありました。第一の感染症は、もちろん病気そのものです。けれどもコロナの怖さは、それが第二の感染症である「不安」と第三の「差別」をもたらすからだというのです。

「不安」は私たちから、気づく力、聴く力、自分を支える力を弱め、またたくまに、人から人へと伝染していきます。また「不安」や恐れは、人間の生き延びようとする本能を刺激し、「差別」・偏見・嫌悪を呼び覚まし、特定の「敵」を作り出して、つかの間の安心を見出そうとさせます。

その結果、人と人との信頼関係や社会のつながりが壊されてしまうのです。私はここまではなるほどと感心しました。けれども、このホームページの、ではどうしたらいいのか、というかんじんな部分には納得できませんでした。そこには、「不安」に対しては、自分をみつめ、ふだんの生活を守り、自分を肯定して、安心できる相手につながることなどが記されていました。

また、「差別」に対してはすべての人をねぎらい、敬意を払うこととありました。けれどもこのようなアドバイスは、私たちの問題をほんとうには解決することができません。そのようにしたいと思ってもそうできないのが私たちの苦しみだからです。そこには私たちよりもはるかに強い罪の力が働いています。

その罪の力に組み伏せられ、神さまと人から顔をそむけてしまった罪人が私たちだからです。しかし主イエスは「罪を赦す権威」(10)を持つお方です。私たちの罪を赦し、それだけではなく、私たちを罪の力の支配から解き放ってくださいました。十字架の上で。

ですから、主イエスの権威は口先だけの権威ではありません。十字架の血による権威です。この権威によって私たちは神の子とされています。この権威によって、私たちは不安から守られ、差別を憎み、愛を注ぎ出して生きるのです。