2020年5月3日の説教要旨

2020年5月3日
第一主日礼拝
説教「罪びとを招くお方」
マルコ2章13-17節

【招かれたレビ】

この日、主イエスは取税人レビに目をとめられました。取税人というのは当時ユダヤ(もとのイスラエルの南半分)を支配していたローマ帝国の手先になって、異教徒のために同胞から税金を取り立てる裏切り者と見られていました。ザアカイのようにみんなに嫌われていた人びと、だれの目にもあきらかな罪びとでした。レビの名はこの箇所以外にどこにも登場しません。ですからマルコが伝えたかったのは、ただ、イエスが「わたしについて来なさい」(14)と言われ、「すると、彼(レビ)は立ち上がってイエスに従った」(14)ことだけでした。

【招くイエス】

私たちがこの箇所を読むときに、いつも考えるのは「どうしてレビはイエスに従うことができたのか」ではないでしょうか。そして「自分は従えているだろうか。従えていないとするならば、なにが足りないのだろう。祈りが足りないのか。決心が弱いのか。」と悩みます。けれども、レビを見てください。レビは主イエスのもとへ行くことさえしていません。いつものように座って税をとりたてていただけです。それなのに主イエスがレビのところに来られて、主イエスがレビを見て、主イエスが招かれたのでした。主語は主イエスです。そして主イエスが来られるところに新しいことが起こるのです。レビがイエスに従うことができたのは、イエスが望まれたからでした。

「一年12回で聖書を読む会」は、現在コロナ対策のために第一土曜を除いてお休みしています。メンバーのご近所の方がたが、しばしば訊ねられたのは、「私はどうしたら信じられるでしょうか」でした。これはある意味ですばらしいことだと思います。「主イエスを信じたいのだけれど、どうしたら信じられるでしょうか」とお訊ねになっているからです。もしその答が「聖書をぜんぶ三回読むこと」とか「毎週必ず礼拝を守ること」であるなら、とても明解です。けれども、信仰は主イエスが与えてくださるもの。主語は主イエスです。だから私はこう答えます。「主イエスが信じさせてくださいます。そして静かに考えてみてください。『主イエスを信じたい』という思いは、主イエスが与えてくださったものです。もうすでに主イエスがあなたの人生にことを起こしてくださっているのです。あなたの心をますます開いていてください。それがあなたのするべきことです。」と。

【そして食卓に】

その後に起こったことは感動的です。「それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである」(15)と。宴会が始まったのです。主イエスとともに、仲間とともに、たがいを喜び、自分を喜ぶ宴(うたげ)がはじまったのです。人生の不幸の多くは、病や貧しさそのものよりも、そんな中で自分を受け入れることができず、その結果他の人を受け入れることができないことから生じます。人はどんなに工夫をこらしても自分をそのまま受け入れることはできません。主イエスの胸に抱かれてはじめて、そのように主イエスの胸に抱かれている自分を受け入れることができるのです。この宴会には、取税人たちや罪人たちが大勢いました。もちろん人はみな罪びとですが、取税人といった自他ともに悪人だと認める人びとがたくさん含まれていたのです。それは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(17)とあるとおり。医者は重い病人から先に招いて治療します。軽い病人しか診ない医者などあり得ないのです。だからあなたが罪を犯すとき、主イエスは近くにおられます。自分でも赦しがたいと思うような、大きな罪であればあるほど主イエスはそこにおられるのです。

【十字架の影】

しかし、そこにいるすべての人が喜んでいたわけではありませんでした。「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。』」(16)とあります。この不満はさらに積み重なっていき、最後には主イエスを十字架に架けることになります。主イエスはただの医者ではありません。罪人という病人を癒すために、ご自分を与えてくださった犠牲の小羊なのです。

今日は第一主日。コロナさえなければ、みなさんといっしょに聖餐に与っているはずです。いま、世界中の教会は、コロナ時代の聖餐のあり方について悩んでいます。ネットの動画を見ながら、あらかじめ配られた聖餐に自宅で与ることは可能だという考えもあります。そんなことはあり得ないという考えもあります。初めてのことですからだれも正解を知らないのです。そんな中で私たちは意見のちがいによって分裂することを避けなければなりません。キリストと私たちを一つにし、私たちをたがいに一つにする聖餐。その聖餐のもちかたで争うなら、それはほんとうに愚かなことです。今日は聖餐をもちませんが、心をひとつにキリストの十字架を思い、そのいやしに、私たちを投げ込みましょう。それこそが聖餐のこころなのですから。

【レビの家にあふれた人びと】

この日、レビの家には人びとがあふれました。そして、レビの食物を食べ、ぶどう酒を飲みました。そこからさらに多くの癒される人びとが起こされたことでしょう。私たちに注がれている神さまの愛を豊かに注ぎ出すことができますように。コロナの時代にふさわしい愛し方のために悩むことは、私たちの使命であり、特権でもあります。