2020年5月10日の説教要旨

2020年5月10日
第ニ主日母の日礼拝
説教「新しくするお方」
マルコ2章18-22節

【福音は驚くこと!】

主イエスの行くところ、どこにも驚きが起こりました。神の国の到来が、罪の赦しが、取税人の神さまと仲間への復帰が起こります。癒されて立ちあがる者たちも。当時の人びとにも私たちにも、主イエスの福音は驚きであり、主イエスは驚きです。喜びに満ちた驚きなのです。

【断食をしないなんて!】

この日の驚きは「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」(18)でした。

パリサイ人たちは、週に二度月曜日と木曜日に断食していました。もともと旧約聖書において断食は罪の悔い改めの表れでした。ですからイスラエルは年に一度「贖罪の日」に断食をしました。それが、バビロン捕囚の時代に年に4回の断食に増えました。捕囚をもたらした、偶像礼拝と弱者をしいたげる罪への反省からと思われます。そしてこの時代には週2回に。いっこうの終わりそうにないローマの支配に神さまが立ちあがってくださることを願って、さらに罪の悔い改めを重ねようとしたのでした。そんなパリサイたちにとって、断食をしない、主イエスと弟子たちは理解しがたい存在でした。

一方、バプテスマのヨハネの弟子たちも断食をしました。パリサイ人たちの断食はともすれば、自分たちの正しさを誇るためのものとなりました。けれどもヨハネは「らくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」(1:6)とあります。自分を主人公とする生き方から、神さまを主人公とする生き方へ、全面的な悔い改め(方向転換)を生きようとしたのでした。ヨハネの弟子たちの断食がどのようなものであったかは、よくわかりません。でも、それは、週のうちの何日かというのではなく、生き方そのものの変革を表すものだったのでしょう。この意味で、ヨハネの弟子たちの断食はパリサイ人の断食に比べて、まっとうでした。

けれども、ヨハネの弟子たちには、わかっていないことがありました。それは、主イエスの新しさ。主イエスが来られたことによってもたらされた新しさは、夜が朝に、闇が光にとって代わられる新しさです。主イエスが来られる前と後では、もはや世界は同じではありません。今はその光を喜ぶとき、喜んで主イエスの胸の中に飛び込むときなのです。

【今は、喜びのとき】

だから主イエスは「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。」(19)とおっしゃいました。花婿はイエス。その喜びの婚礼はもう始まっていて、弟子たちはそこに招かれている。それも「友人」として。神の友といえば、私たちが思いだすのはアブラハムです。ユダヤ人にとっては足元にも近づけないような祖先。ところがそのアブラハムにも等しいものとして、ガリラヤの漁師や取税人が友人と呼ばれて、招かれているのです。

今は、喜びのときです。弟子たちと同じように私たちも主イエスの婚礼に招かれているからです。信仰とは何か。それは喜ぶことです。バプテスマのヨハネの弟子たちのように、主イエスに会いながら、えんえんと自分の罪を嘆き続けるようなことがあってはなりません。自分の罪を深く知りながらも、その罪ごと主イエスの胸に抱きしめられて、「もう悩まなくていい。もう苦しまなくていい。ヨハネの弟子たちのように、痛み続けなくてよい。パリサイ人の弟子たちのように、自分の正しさを証明しなくてよい。ただわたしを喜べばよい。わたしもあなたがたを喜ぶ」、というみ声に自分をゆだねてしまうのです。それが信仰です。

【花婿が取り去られる日】

ところが、主イエスは気がかりなことをおっしゃいました。「しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。」(20)と。十字架のことです。主イエスはこのときすでにはっきりと十字架を見すえておられました。目をそらさないで、十字架を見すえながら、「わたしはこの十字架を避けはしない。あなたがたの罪のゆるしと罪からのいやしのためなのだから。あなたがたが喜びのいのちを、新しいいのちを受けるために。」そうおっしゃって、十字架の道を進んでいかれました。

【新しい皮袋】

主イエスが注いでくださる新しいいのち。主イエスはそれを新しいぶどう酒にたとえました。「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」(22)。新しいぶどう酒は発酵が続いていますから、柔軟性のない古い皮袋を破ってしまいます。パリサイ人の弟子たちのように自分の正しさを証明しようとする生き方、ヨハネの弟子たちのように自分の罪を嘆き続ける生き方は、古い皮袋。新しいいのちにふさわしくないのです。主イエスを喜ぶ生き方、自分の足りなさや罪深さごと、主イエスに抱きしめられて生きる生き方こそが、新しい皮袋の生き方です。その喜びは、死も困難もコロナも奪うことができないのです。