2020年5月17日の説教要旨

2020年5月17日 第三主日礼拝

説教「安息日の主なるお方」

マルコ2章23-28節

【麦畑事件】

この日は安息日。麦畑で事件が起こりました。主イエスの弟子たちが空腹のあまり、麦の穂をつんで食べ始めたのです。当時といえども、生麦を食べるというのは普通のことではありませんでした。主イエスは弟子たちとともに、宴会に出席されたというイメージが強いのですが、ふだんは食べるものにも事欠くような毎日であったようです。

そんな弟子たちのしていることで、パリサイ人たちが主イエスを責めます。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」(24)と。パリサイ人たちは、安息日に働いてはならない、という律法に対しての違反だと考えたのでした。

【律法のこころ】

けれども、律法はただ働くことを禁止しているのではありません。そもそも律法は「教え」。「神さまとともに歩く歩き方の教え」です。いつも申し上げることですが、まず出エジプト、そしてシナイ山。神さまのあわれみによって奴隷から救い出されたイスラエルが、神さまに喜ばれ、神さまを喜びながら、生きるための心得。それが律法なのです。シナイ山で与えられた十誡の第四誡にこうあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」(出エジプト20:8-11)

パリサイ人たちは、これを誤解していました。第四誡を、いっさいの仕事をしてはならないというように理解して、なにが仕事にあたり、なにが仕事にあたらないかを細かく規制したのです。これは律法のこころを見失うことでした。今でもイスラエルに行くと、安息日には、エレベーターが各階停止になったりします。これは、エレベーターの行き先ボタンを押すことが仕事になる、という解釈からです。

けれども出エジプト記が引用している創世記1章には、神さまのおこころ、律法のこころは鮮やかです。神さまは疲れたから七日めに休憩されたのではありません。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。」(創世記1:31)とあります。神さまは七日めに、世界を喜ばれました。ご自分が造られた世界のすべてを喜ばれたのです。もちろんその中でももっとも喜んでくださったのは人間です。ご自分のかたちに造った人と交わることを喜ばれたのでした。たいへんに非常に喜ばれたのでした。ですから第四誡は、神さまの愛の呼びかけです。「さあ六日間働いたなら、もうそれでじゅうぶんではないか。わたしがあなたがたを養ってあげるのだから。この七日めは祝いの日、祭りの日。あなたをわたしが喜び、あなたがわたしを喜ぶ日なのだ」、と。

【真の安息】

 十誡は、出エジプト記20章と申命記5章の二ヵ所に出てきます。申命記では、第四誡はこうです。「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、【主】が命じたとおりに。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」(申命記5:12-15)。ここでは、安息日は出エジプトにおける奴隷からの解放を根拠にしています。あの日、イスラエルを解放して、自由にしたのは神さま。私たちも自分を自分で解放することができません。私たちのたましいは、いろいろな思いわずらいや、弱さにつけこむ罪の力などによって、しばしば不自由な奴隷のような状態におちいります。愛することを望みながら、愛せないのは、自分の思い通りに生きることができない奴隷に似ています。

だから神さまは安息日を定めてくださいました。この日私たちはたちどまって、自分がどこから来て、どこにいるのかを確認します。かつて、私たちは罪と死の力の奴隷でした。今は、神さまの胸の中で、そこから自由にされています。神と人とを愛する自由を手に入れて、喜んでいます。この自由は神さまの胸の中にいるかぎり、私たちのものです。いま、「ステイホーム」と言われます。「おうちにいよう」です。これに「ステイゴッド」を加えましょう。「神さまの胸の中にいよう」と。真の安息とはなにか。それは神さまの胸の中で神さまを喜ぶことです。

【安息日の主】

パリサイ人たちの非難に、主イエスはダビデをめぐるできごとで答えました。「大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」(サムエル記第二2:25-26)と。ダビデが王になる前に、サウルからいのちを狙われて逃げ回っていたころのことです。このとき、ダビデと仲間たちは祭司以外は食べてはならないと定められたパンを食べました。神さまはそれをお赦しになりました。平時においては、聖なるものをたいせつにすることが神さまを敬うことです。けれども、目的は神さまをたいせつにすること。神さまのおこころ、神さまの目的をたいせつにすること。それは、非常事態においては、平時の規則を順守するのとはちがったあらわれ方をすることもあります。神さまはダビデを通して、世界を祝福することを願われました。そのためにはダビデが聖なるパンを食べることにはなんの問題もなかったのです。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。」(27)という主イエスのおことばは、神さまをほんとうにたいせつにすることへの招きなのです。礼拝への招きといってもよいと思います。

いま、世界の教会はコロナ時代の礼拝のあり方についてまどい、語り合っています。5月10日のカトリック東京大司教区の菊地功(いさお)大司教の説教は、私にとっては衝撃でした。第一コリント10:16から語っていました。聖書協会共同訳で「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。」とあるところです。そしてなんと「霊的聖体拝領は、個人の信心ではなく、共同体の交わりだ」と語ったのです。カトリックというと、とにかく実際に聖餐に与ることを生命線にしているという印象がありますが、菊池大司教は、実物をともなわない「霊的な聖体拝領」にもキリストのからだである教会のいのちがあると大胆に語ったのでした。一方、東京神学大学の芳賀力(つとむ)学長は、集まることができない礼拝は、非常時のものであって、これを当たり前だと思ってはならない。使徒の働きに繰り返される「一つになって集まって」(1:15ほか多数)は教会の本質である、と述べています。いろいろな試みがあり、いろいろな意見があるでしょう。私たちにはなにが正しいのかはわかりません。けれども、安息日を安息日としてくさるのは安息日の主であるイエスです。このお方のもと、いま、できる最善をつくすのです。神さまをたいせつにし、神さまの胸の中で神さまを喜ぶのです。安息日の主が、そんな私たちの礼拝を礼拝としてくださいます。

【主の日の礼拝】

ユダヤの安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没まで。いわゆる土曜安息でした。キリスト教会が。日曜日を「主の日」と呼んで礼拝をささげるようになったのは、主イエスが日曜日の早朝によみがえられたからです。私たちの安息の根拠は、主イエスの十字架と復活にあります。それゆえに、主イエスに安らぎ、心おきなく主と隣人と世界を愛することができるのです。