2020年5月24日の説教要旨

2020年5月24日

第四主日礼拝 説教

「いのちを救うお方」

マルコ3章1-6節

【安息日、悪意の真ん中で】 先週に続いて、今日の箇所も安息日。これは偶然ではありません。ユダヤ人は安息日に会堂に集まって、神さまを礼拝し、聖書とその解き明かしを聴いていました。まさに、主イエスがお語りになるのにふさわしい時とところでした。 けれども、「人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」(2)とあります。人びとは、悪意をもって、主イエスを迎えたのでした。当時の律法学者たちの教えによるなら、安息日に許される医療は、命の危険がある場合に限られていました。この人は「片手の萎えた人」(1)ですから、重大な障がいではあるけれど、今すぐ治療をしなければ死んでしまう、というわけではありません。そういった明日まで待つことができる治療をすることは、律法で禁じられている、とされていたのです。 【安息日、人びとの真ん中で】 そんな悪意の真ん中で主イエスは、その人に、「真ん中に立ちなさい。」(3)と言われました。これは、このときに限ったことではありません。主イエスが癒されるとき、また主イエスが救いのみわざをなさるとき、多くの場合、人びとの真ん中で行われます。それは、主イエスの救いは、だれにも知られないところで、自分と神さまとの間でこっそりと起こることではないからです。 ときに牧師は、「だれもいないときに、先生とふたりきりで洗礼を授けてほしい。そして、そのことは内密にしておいて欲しい」と言われることがあります。いろいろな事情がありますから、なんとも答えかねる場合もあります。けれども、はっきりしているのは、それが福音にそぐわない、ということです。主イエスの宣教のはじめは、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)でした。この世界の歴史の中に現実に起こったできごとが福音なのです。それは人の心の中にだけひっそりと起こるできごとではありません。世界の真ん中で、ほんとうに起こっているできごとに、私たちも参加しているのです。 だから主イエスは、「真ん中に立ちなさい。」(3)と言われました。「いまここで、歴史の中で、現実に起こっている救いの中へ飛び込め。わたしの胸の中にさあ、飛び込んでおいで。」と、腕をひろげるようにして、招かれたのでした。 【安息日、人びとの沈黙】 この招きは片手の萎えた人に対してだけのものではありません。そこにいたすべての人びとに対するものでした。 「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」(4)は、よく誤解されるところです。「規則を守って人を助けないことは悪を行うこと。規則を破っても、愛の業に励むことがたいせつなのだ」と、誤解するのです。しかし、これはまったくの誤解です。主イエスはたんなる人道主義者ではありません。主イエスは安息日の主です。私たちにほんとうの安息を与えるお方です。病や障がいのいやしだけではなく、私たちを神さまから切り離す罪や死の力を打ち砕いて、私たちを胸に抱きしめて離さないお方なのです。病の中でも、障がいの中でも、コロナの中でも。 【安息日、主イエスの怒りと悲しみ】 けれども、「彼らは黙っていた。」(4)と、あります。主イエスの招きを拒絶したのです。このとき「イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、」(5)と、あります。主イエスはここでただ腹を立てたのではありません。主イエスにあって、怒りと悲しみはひとつです。主イエスはご自分を拒絶して、暗闇にとどまり続けようとする人びとの頑なさを悲しみ、地団太を踏むように痛まれました。人びとが回復していただこうとしないことにいたたまれない思いをなさったのでした。 そして主イエスは、その人に「手を伸ばしなさい」(5)と言われました。手の萎えた人に手を伸ばせというのは、不条理です。順序を踏むなら、まず、癒して、それから「手を伸ばしなさい」と、命じるべきでしょう。けれども、主イエスが与えたのは癒しだけではありませんでした。癒しとともに、信仰を与えました。ですから、この人は動かないはずの手を伸ばそうとすることができたのです。そのとき、信仰と癒しが同時に与えられたのでした。私たちは自分で信仰を作り出すことはできません。信仰を与えることができるのは主イエスだけです。 実は、主イエスが「手を伸ばしなさい」と命じたのは、この人に対してだけではありません。主イエスはそこにいる人びと全員に「あなたがたも手を伸ばしなさい。ここころを頑なにしないで、あなたがたのこころが癒されることを願いなさい。この人が萎えた手を伸ばそうとしたように。今、わたしはあなたがたに命じる。こころの手をわたしに向かって伸ばしなさい」と。 そして、この招きはこの礼拝に連なる私たち全員に対しても向けられています。「手を伸ばしなさい」と。主イエスに向かって、「手を伸ばしなさい」と。 【安息日、主イエスの十字架】 この人の手はいやされました。主イエスがこころとからだに回復を与え、ご自身の胸に抱きしめてくださったのでした。ところが、「パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。」(6)とあります。安息日の主である主イエスが、安息日にご自分の民を抱きしめたことが許せないのです。殺さなければならないと決意したのです。ここに、とても宗教的であるのに、まったく神さまがわからなくなってしまっている悲劇的な人間の姿があります。 けれども、いえ、だからこそ主イエスは、十字架へと続く道を歩み続けてくださいました。私たちが「手を伸ばす」のをさまたげるすべての力を打ち砕くために。私たちを頑なさから解き放ち、神と人を愛する者に変えて抱きしめるために。主イエスは、ただ「手を伸ばしなさい」と命じるだけではありません。そうすることができるようにしてくださったのです。 いよいよ礼拝の再開が近づいています。それは仲間と会うことができる私たちの喜びの日です。けれども、私たちが共にささげる礼拝をだれよりも待ち望んでおられるのは、十字架に架かり、主の日に復活してくださった主イエスです。このことを忘れることがありませんように。