2020年6月7日の説教要旨

2020年6月7日 第一主日礼拝
説教「そばにおいてくださるお方」
マルコ3章13-19節

【使徒を造るイエス】

今日の箇所、12人の使徒の任命の箇所です。使徒というのは「派遣された者」という意味。主イエスの使者として派遣される、いうならば神の国の大使ということになります。

「任命し」(14)とあるのは、「造る」という意味のことばです。つまり、彼らが使徒になったのは、イエスが彼らを使徒に造られたからです。これはとてもたいせつなことです。使徒たちは、たくさんいた弟子たちの中から、すぐれていたので選ばれたのだろう、私たちはそう考えがちです。世の中の任命はそうだからです。けれども、主イエスは使徒として「彼らを遣わして宣教をさせ、 彼らに悪霊を追い出す権威を持たせる」(14-15)とあります。悪霊については来週お話ししたいと思いますが、使徒たちの使命はふつうの使命ではありません。人びとを神さまに向かって解き放つこと。それは、有能だからとか、熱心だからできることではありません。主イエスが使徒として造ってくださるときだけ、することができることなのです。

主イエスは使徒を造ることができます。私たちをもご自分の使徒に造ることができます。それは、私たちの有能さや熱心さとは関係ありません。ご自分が望まれるままに私たちを使徒としてくださるのです。もちろん、私たちは、マルコやマタイのように福音書を書くわけではありません。けれども、人びとを神さまに向かって解き放つために、それぞれが置かれた場所に遣わされているのです。

「ご自分が望む者たちを呼び寄せ」(13)ともあります。使徒たちが、そして、私たちが選ばれたのは、主イエスが望まれたからです。私たちの選びの根拠は、私たちのうちにはありません。「信じる者は救われる」といいます。たしかにそうなのですが、私たちが信じることができたのは、まず主イエスがそれを望んでくださったからでした。だからどんなときも、私たちは絶望することがあってはなりません。たとえ最悪の罪を犯してしまったとしても、主イエスはあなたがご自分とともにいることを望んでおられるからです。そのために十字架に架かってくださったのです。

【そばに置くために】

使徒たちのすることは、主イエスに遣わされて福音を宣教し、悪霊を追い出すこと。けれども、それらのことよりも、まず第一にすることがありました。それは「彼らをご自分のそばに置くため」(14)とあるように、主イエスのそばにいることでした。

主イエスのそばにいるならば、主イエスがいろいろなできごとをどう感じるのか、どうふるまうのか、なにを喜び、なにを悲しみ、なにを怒るのかがわかります。どんなふうに喜び、どんなふうに怒り、どんなふうに悲しみを表すのかもわかってきます。私の言い方でいえば、主イエスのそばにいるなら、主イエスの体温が感じられ、主イエスの胸の鼓動が伝わってくるのです。そうして、主イエスのあわれみ、主イエスの与える愛が身に着いていくのです。

残念ながら、私たち使徒たちのように、目に見える主イエスのそばにいることができません。そのかわり、ふたつの方法で主イエスのそばに置いていただくことができます。

一つめは聖書のみことばです。じっくりとみ言葉を読み、また礼拝で聴くことによって、主イエスのおこころを知り、主イエスの体温と鼓動を感じることができます。二つめは仲間を通してです。私は牧師になって長い間、どういうふうに牧師として、感じ、ふるまい、愛したらよいのかが、よくわかりませんでした。具体的なひとつひとつのできごとにどう対応していいのか、そのかなめのところがつかめなかったのです。ずっと悩み、苦しんでいたのですが、明野の牧師になってしばらくしてから、ほかの牧師たちと積極的に交わるようになりました。ほかの牧師が、こういうときにどう感じているのか。どのようにその思いを表現するのか。どのように決断し、あるいは決断しないのか。そういうことを見たり聞いたり、なによりしばしば直接訊ねてみました。そうするうちに少しずつ、牧師たちを通しても主イエスのおこころが、体温が、伝わってきました。主イエスは仲間をとおしても、私たちをそばにおいてくださるのです。それは牧師にかぎったことではありません。神さまは率直な交わりのうちに私たちを使徒として造ってくださるのです。

【なんというふぞろいな】

この十二人は実にふぞろいです。熱心だけれどもおっちょこちょいのペテロ、「雷の子」と呼ばれた激しい性格のヤコブとヨハネの兄弟、ほかにも政治的にはローマに近かった取税人がいるかと思えば、熱心党という反ローマの過激派もいます。人間が任命するなら、これほどふぞろいな集団はあり得なかったでしょう。けれども、主イエスはこの12人を望まれました。まったくふぞろいな人びとを使徒に造り、人間には決して生み出すことができない愛のきずなを彼らの間に造り出されたのでした。これが教会です。私たちの間に愛のきずなを造り出し、この世の光とすること、それが主イエスの望まれたことなのです。

【使徒的教会】

キリスト教会は、自分たちを「使徒的教会」と呼んできました。紀元4世紀のニカイア信条というすべてのキリスト教会に共通の信仰告白にも出てくることばです。日本語としてはこなれない感じがしますが、主イエスが使徒を造り出して生み出した教会、その使徒たちの生き方が受け継がれている教会という意味です。想像してみてください。何十億人ものキリスト者が行列になって歩いていきます。その先頭に立っているのは、使徒たちです。その後ろに使徒たちから主イエスの体温を伝えられた人びとが続きます。そして、行列の最後尾を歩いているのが、なんと私たちなのです。

私たちの後にも、この行列は続いていきます。主イエスの体温を知り、みことばと仲間を通して、主イエスのおこころを生きる私たち。そんな私たちに続く人びとが起こされていくのです。主イエスが望まれるゆえに。