2020年7月12日の説教要旨

2020年7月12日
第ニ主日礼拝
説教「耳を開いてくださるお方」
マルコ4章21-25節

【イエスのたとえ】

マルコ4章から、イエスのたとえを聴いています。繰り返してお語りしてきたたいせつなことは、以下のとおりです。

  • イエスはたとえによって「神の国(神の支配)の奥義」(11)を語られた。それは「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)のとおり、主イエスがこの世界に来たことによって、神の支配が明らかになり、私たちの救いと世界の回復がはじまったというできごと。
  • たとえを聴く私たちは、神の国に招かれている。存在まるごと、そこで生きるように。それは頭の先で理解するのとはちがうので、難しいことである。(12)
  • けれども主イエスは私たちが招きに応じることができるようにしてくださる。心を痛め、十字架の血を注いで。

【明かりのたとえ】

今日の「明かりのたとえ」は、じつは誤解されることがおおいたとえです。それはマタイ5章14-16節との混同があるからでしょう。「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」です。この場合の明かりは「あなたがたの光」と呼ばれる「あなたがたの良い行い」。それを「輝かせなさい」というのです。

けれども、今日のたとえの「明かり」はちがいます。「明かりを持って来るのは」 (21)とあるのは、もともとは「明かりがやって来るのは」という意味のことば。つまり今日のたとえでの「明かり」とは主イエス・キリストによってやって来た神の国、神の支配なのです。この神の国の支配を認め、そこに生きる者は当時も今も少数です。主イエスの家族も、主が「おかしくなった」(3:21)と思って連れ戻しにきました。明かりは「升の下や寝台の下に」(21)に置かれているかのようです。神の国が隠されているのです。主イエスが人となられた神であることを信じる人は少なく、その十字架が世界に回復をもたらすということは軽んじられています。けれども、神である主イエスが来られたことは事実です。たとえ今は隠されているように見えても、明かりがやって来たのは、「燭台の上に置くためではありません」(21)。主イエスの明かりは必ずあらわれ、おおやけになるのです。だから「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。」(22)とあるのです。

主イエスを信じ、愛する私たちにとって、人びとが主イエスを受け入れないで軽んじていることは、心が痛むことです。そのために世界に分断や差別が満ちていることは耐えがたいですし、神さまに背を向けている人びとのありさまが続いているのを見ると、悲観的になりそうです。けれども、このたとえで主イエスは希望を持てとおっしゃっています。「あなたがたは絶望してはならない。たとえ今は、わたしの支配が隠されているように思えても、それは必ず明らかにされる。もうすでにその明かりはかかげられている。その明かりはわたしの十字架と復活によってそしてますます明るさを増し、世界とそこに住む人々を回復へと導いている。そして、わたしがもう一度来るときには、だれの目にも疑うこともなくはっきりとするのだ」と。

【耳を開いてくださるお方】

「聞く耳があるなら、聞きなさい。」(23)と主イエスはおっしゃいます。これらのことを聞く耳を持つようにと。けれどもそれは、礼拝で居眠りをしないでいっしょうけんめい聞くようにということではありません。そもそも私たちは自分で「聞く耳」を持つことはできないのです。「あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。」(24)とあります。私たちは、みな自分なりの秤を持っています。そしてその秤で主イエスのみことばを量ります。小さな秤ではかるなら、主イエスのみことば、主イエスの与えようとしている神の国の恵みは小さなものでとどまってしまうでしょう。たとえば救いとは、死んで天国に行くことだけだと思ってしまうことはよくあることです。

けれども、「持っている人はさらに与えられ」(25)ることこそが主イエスの望みです。神の国はもうすでに始まっていて、私たちを作り変え続けていること。そして、私たちを通して、まわりの人びとと世界を回復させていくこと。そのことを信じる大きな秤を主イエスは与えてくださいます。「聞く耳」を与えてくださるのは主イエスです。この朝も私たちの耳を開き続けてくださっているのです。