2020年7月26日の説教要旨

2020年7月26日
第四主日礼拝
説教「信じさせてくださるお方」
マルコ4章35-41節

【イエスを舟に乗せたまま】

私はここを読むとなにかほほえましいような気がします。夕焼けの中の主イエスと弟子たち。主イエスが「向こう岸へ渡ろう」(35)とおっしゃる。すると弟子たちは、するすると舟を動かして出発します。イエスを舟に乗せたまま(36)。「ちょっとあれをとってきます」「パンを積みます」などと言わずに。主イエスと弟子たちと夕日と。

ところが、「そこで弟子たちは群衆を後に残して」(36)とあります。多くの人びとは岸に残り、そして家に帰って行ったのです。なかには「今日はいいお話を聞いて心が洗われたー」と言って人もいたかもしれません。また「なんだか難しくてよくわからなかったなー」と言った人もいたでしょう。どちらにしても、彼らは家に帰り、そして日常の生活の続きが始まったのです。

けれども弟子たちは沖へ漕ぎ出しました。「イエスを舟に乗せたまま」、イエスとともに、イエスに従って、なにが待ち受けているかわからない新しい旅へと。私たちもまた、「イエスを舟に乗せたまま」、出発した人びとです。イエスとともに、イエスに従って、なにが待ち受けているかわからない新しい旅へと。これは不思議なことです。私たちが他の人びとに比べて、特に理解力があったというわけでもありません。また、とくに善い人であったわけでもないのです。そんな私たちを舟に乗せてくださったのは主イエス。古来、舟は教会のシンボルとして用いられてきました。週報に掲げた図のように。教会は舟。私たちは主イエスに招かれて、そこに乗り込み、今イエスとともに、そして、仲間とともに旅を続けているのです。

【とつぜんの嵐】

「すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。」(37)と、突然の嵐が襲いかかります。すべての人の人生には嵐のような困難が訪れます。病や経済的な困難、家族の問題、仕事上の問題、孤独、そして死。コロナもそうでしょう。けれども、マルコ4章の嵐はそのような、すべての人に共通のものではありません。家に帰った人びとは会うことがなかった嵐。イエスとともに舟に乗った者だけが会う嵐だったのです。

私たちは主イエスに従って、舟に乗りこんだ者たちです。ところが、そんな私たちをひどい嵐が襲うことがあります。それは主イエスを知らなかったら、経験することがない嵐、信仰者であるゆえの悩みです。「ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と言った。」(38)のところ。私たちが苦しみに会うときになにより耐えがたいのは、主イエスが答え(応え)てくださらないように思えること。私たちの人生をなりたたせている主イエスがおられないのではないか、いても私たちに関心を持ってくださらないか、と思うとき、主イエスを見失いそうになり、私たちの希望は吹き消されそうになるのです。

【信じさせてくださるお方】

そこに主イエスのみ声が響きました。「イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」(39)です。主イエスは権威あるお方。かつて出エジプトのときに海を分けて、イスラエルを救った神さまの権威を思わされます。主イエスにおいて、神の支配は確かに始まっているのです。どんなに激しい嵐に翻弄されているように思えても、神はこの世を支配しておられます。コントロールを失っておられないのです。

「イエスは彼らに言われた。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。』」(40)は、たいへん誤解されやすいところ。私たちはここを「嵐の中でも揺るがない信仰を持ちなさい」と取って自分を責めるのです。けれども、信じさせてくださるのは主イエス。このときも弟子たちが主イエスに叫ぶことを助けてくださったのは主イエスです。信仰とは自分の持ち物ではありません。信仰とは教会の仲間とともに時々刻々主イエスに叫ぶこと。自分が叫べないときにも、仲間が叫ぶことを思い出させてくれます。代わりに叫んでもくれます。そのようにして、教会という舟は信仰に生きていきます。信仰に成長していくのです。

2020年7月26日 第四主日礼拝 説教「信じさせてくださるお方」 マルコ4章35-41節

【イエスを舟に乗せたまま】

私はここを読むとなにかほほえましいような気がします。夕焼けの中の主イエスと弟子たち。主イエスが「向こう岸へ渡ろう」(35)とおっしゃる。すると弟子たちは、するすると舟を動かして出発します。イエスを舟に乗せたまま(36)。「ちょっとあれをとってきます」「パンを積みます」などと言わずに。主イエスと弟子たちと夕日と。

ところが、「そこで弟子たちは群衆を後に残して」(36)とあります。多くの人びとは岸に残り、そして家に帰って行ったのです。なかには「今日はいいお話を聞いて心が洗われたー」と言って人もいたかもしれません。また「なんだか難しくてよくわからなかったなー」と言った人もいたでしょう。どちらにしても、彼らは家に帰り、そして日常の生活の続きが始まったのです。

けれども弟子たちは沖へ漕ぎ出しました。「イエスを舟に乗せたまま」、イエスとともに、イエスに従って、なにが待ち受けているかわからない新しい旅へと。私たちもまた、「イエスを舟に乗せたまま」、出発した人びとです。イエスとともに、イエスに従って、なにが待ち受けているかわからない新しい旅へと。これは不思議なことです。私たちが他の人びとに比べて、特に理解力があったというわけでもありません。また、とくに善い人であったわけでもないのです。そんな私たちを舟に乗せてくださったのは主イエス。古来、舟は教会のシンボルとして用いられてきました。週報に掲げた図のように。教会は舟。私たちは主イエスに招かれて、そこに乗り込み、今イエスとともに、そして、仲間とともに旅を続けているのです。

【とつぜんの嵐】

「すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。」(37)と、突然の嵐が襲いかかります。すべての人の人生には嵐のような困難が訪れます。病や経済的な困難、家族の問題、仕事上の問題、孤独、そして死。コロナもそうでしょう。けれども、マルコ4章の嵐はそのような、すべての人に共通のものではありません。家に帰った人びとは会うことがなかった嵐。イエスとともに舟に乗った者だけが会う嵐だったのです。

私たちは主イエスに従って、舟に乗りこんだ者たちです。ところが、そんな私たちをひどい嵐が襲うことがあります。それは主イエスを知らなかったら、経験することがない嵐、信仰者であるゆえの悩みです。「ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生。私たちが死んでも、かまわないのですか』と言った。」(38)のところ。私たちが苦しみに会うときになにより耐えがたいのは、主イエスが答え(応え)てくださらないように思えること。私たちの人生をなりたたせている主イエスがおられないのではないか、いても私たちに関心を持ってくださらないか、と思うとき、主イエスを見失いそうになり、私たちの希望は吹き消されそうになるのです。

【信じさせてくださるお方】

そこに主イエスのみ声が響きました。「イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」(39)です。主イエスは権威あるお方。かつて出エジプトのときに海を分けて、イスラエルを救った神さまの権威を思わされます。主イエスにおいて、神の支配は確かに始まっているのです。どんなに激しい嵐に翻弄されているように思えても、神はこの世を支配しておられます。コントロールを失っておられないのです。

「イエスは彼らに言われた。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。』」(40)は、たいへん誤解されやすいところ。私たちはここを「嵐の中でも揺るがない信仰を持ちなさい」と取って自分を責めるのです。けれども、信じさせてくださるのは主イエス。このときも弟子たちが主イエスに叫ぶことを助けてくださったのは主イエスです。信仰とは自分の持ち物ではありません。信仰とは教会の仲間とともに時々刻々主イエスに叫ぶこと。自分が叫べないときにも、仲間が叫ぶことを思い出させてくれます。代わりに叫んでもくれます。そのようにして、教会という舟は信仰に生きていきます。信仰に成長していくのです。

だれも嵐に会いたいと思う人はいません。嵐はむりやりに経験させられるものです。けれども神さまはそこからよきものを生み出してくださいます。弟子たちの場合は、「彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」(41)と恐れ、問い始めました。十字架と復活によって答を知らされることにある問いを抱き始めたのです。私たちも信仰者としての嵐の中で、主イエスとの関係を深められていきます。主イエスが私たちのために何も惜しまない、人となられた神であることをさらに知っていくのです。