2020年8月9日の説教要旨

2020年8月9日
第二主日礼拝
説教「起き上がらせてくださるお方」
マルコ5章21-43節

【ふたりの女性】

ゲラサからガリラヤに戻った主イエス。そこで主はふたりの女性に新しい人生を与えました。今日の箇所ではふたりの女性のできごとが、サンドイッチのように記されています。 21節-24節 会堂司ヤイロの娘

25節-34節 長血の女

35節-43節 会堂司ヤイロの娘

このからみあった二つの救いをつらぬくのは、病に苦しめられたり、あるいは死んでしまった人びとが主イエスによって起き上がり、新しい人生を歩み始めたことです。今日はまずヤイロの娘を、来週は長血の女のできごとから聴きましょう。

【一緒に行かれたイエス】

当時の会堂司、ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)の管理者は、地位も名誉もある人でした。ヤイロはこれまでも、自分の会堂で主イエスが福音を語り、汚れた霊を追い出し、病をいやすのを見てきました。しかしこれまでのヤイロはイエスとはある距離を保っていたようです。「自分は信仰者である。聖書や神のことならよく知っている。このイエスの言うこのことは納得できるが、あのことはおかしいのではないか。イエスのこの行動はよいが、あのふるまいはいかがなものか。」そんなふうに思っていたようにみえるのです。

そんなヤイロにも澄ましてはいられないときがきました。小さい娘が死にかけていたのです。ヤイロは初めて「イエスを見るとその足もとにひれ伏して・・・懇願した」(22-23)のでした。おぼれる者はわらをもつかむ、と言います。実際ヤイロは、娘を助けてくれるならだれにでもなんにでもひれ伏したことでしょう。「娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」(23)と言ったのも、確固たるイエスへの信仰があったからではありませんでした。けれども、「イエスはヤイロと一緒に行かれた」(24)のでした。「自分の信仰があやふやだと主イエスは願いをきいてくださらない」、などと思ってはなりません。主イエスは私たちと一緒に行ってくださいます。私たちの信仰があやふやならなおさらのことです。

【泣く人びととイエス】

ところがヤイロの娘は死んでしまいました。主イエスは「人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしている」(38)のをご覧になりました。死は断絶です。娘が召され、父が召された私たちです。「だれかが死ぬことは自分の一部が死ぬことだ」と感じます。時間がたっても自分の中の死んだ部分は元にはもどらないのです。8月はとりわけ厳しい季節です。今年も28日前後には静かなときをもつでしょう。痛みと悔いと嘆きのうちに。

けれどもヤイロの家に主イエスのみ声が響きました。「その子は死んだのではありません。眠っているのです。」(39)と。人びとは「あざ笑った」(40)のですが。無理もありません。いまも、私たちが「美和は眠っているのです」と言うなら、人びとには意味不明だろうと頭を振るでしょう。しかし主イエスは死の力を打ち砕かれました。ご自分の十字架と復活によって。そしてヤイロの娘の「手を取って・・・少女よ、あなたに言う。起きなさい」(41)とおっしゃり、「少女はすぐに起き上がり、歩き始めた」(42)のでした。

美和の場合は、三年前に起き上がることはありませんでした。主イエスには美和を起き上がらせることはできないのでしょうか。主イエスは美和の手は取ってくださらないのでしょうか。ノー。ネバー。そうではありません。美和は眠っています。主イエスはやがて、優しく美和の手をとり起き上がらせてくださいます。私たちの死んだ一部を回復させてくださいます。私たちよりも美和の死を痛んでくださっているイエスが。

【光の中のやみとやみの中の光と】

だから私たちは悲しみながら希望に生きます。希望に生きながらも、嘆きがあります。いっさいの涙をぬぐってくださるのは再臨の主イエスだからです。それまで、私たちはたがいに支え合いながら、主イエスに仕えます。この世界に主イエスのいのちを伝え続けます。

先日の役員会で灘教会からの集会の依頼が承認されました。コロナの下、ネットによる新しい集会の試みです。子どもや孫に先立たれた方が多いそうで、私と岩渕まことさんがゲストということでした。私には複雑な思いがあります。美和のことを語りたくない思いもあるのです。「父の涙」の岩渕さんもそうでしょう。けれども、やはり私は語らせていただきたいと思います。主イエスが私たちを涙の中に放っておくことはないからです。美和を起き上がらせてくださる主イエスを、人びとが知らないままでいることがあってはならないからです。語りながら泣いてしまうかもしれません。それでも、主イエスが私の手を取って起き上がらせ、語り続けさせてくださいます。