2020年8月16日の説教要旨

2020年8月16日
第三主日礼拝
説教「恐れから解き放つお方」
マルコの福音書5章21-43節

【復活のいのち】

先週は、会堂司ヤイロの死んだ娘を起き上がらせた主イエスをみました。ただ超自然的な奇蹟が起こったというのではありません。やがて十字架に架かって起き上がられた主イエスの復活のいのちが、先取りするようにして注がれたのでした。

今日は長血の女の人。この二つのできごとがからみあうように記されているのは、そこをつらぬく主イエスの復活のいのちの恵みです。身体もたましいも新たに生かすその恵みを今日、私たちも受け取りましょう。

【深い痛み】

苦しみの中にある女性です。「十二年の間、長血をわずらっている」(26)のですが「多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」(27)のです。それだけではありません。当時のユダヤにおいてはこうした女性の出血は「けがれ」とみなされ、彼女に触れた人、彼女が触れたものもけがれるとされていました。ですから彼女は人との交わりが断たれ、また、礼拝にも参加できない痛みの中にいました。それは病気の苦しみよりも深いところの痛みでした。そんな痛みは私たちも知っています。神さまを知らず、まわりの人びとにもこころを開くことができなかった私たちは、まさにこの女性です。主イエスにお出会いするまで、深い痛みのなかにいたのです。

【後ろから衣に】

 女性は「群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた」(27)のでした。会堂司ヤイロは、群衆の目の前で主イエスにひれ伏しました。けれどもけがれたものとみなされている女性は、主イエスのみ前に出ることすらもできません。だから、うしろからそっと触れるしかなかったのです。しかし主イエスはこの女性を感じとってくださいました。たとえ私たちがおずおずと近づくときにも主イエスはそれを見逃されません。

この女性は「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」(28)と思ってイエスに近づきました。これは現世利益と言われてもしかたがない信仰でしょう。病気さえ治ればそれでよいと思っていたのです。そのとき主イエスは「だれがわたしの衣にさわったのですか。」(30)と訊かれました。それは責めるためではありません。そうではなくて、主イエスはこの女性と、顔と顔を合わせた、人格的な関係を持つことを望まれました。救いとは、永遠に神さまとの愛の関係を生きること。主イエスはただ病のいやしだけではなく、そんな救いを与えたいと願われたのです。

私たちの多くも、ひょっとしたらなにかの現実的な問題の解決のために教会に来たかもしれません。それはちっとも差支えありません。けれども主イエスはそれよりはるかにすばらしいいのちを差し出しておられます。この女性は「恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した」(33)のです。そのとき主イエスとの間に、人格的な愛の交わりが始まりました。始まったその交わりは彼女のそれからの生涯を、神との祝福に満ちた関係、人と祝福に満ちた関係に満たしていきます。

【あなたの信仰】

ここで主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」(34)とおっしゃいました。私たちには不思議です。なぜなら女性の信仰は現世利益のような信仰だったからです。けれども、主イエスはそんな信仰を受け取って、人格的な信仰へと引き上げてくださいました。声をかけ、探し、待ち、見つけ、語ってくださったのです。私たちにそうしてくださったように。そのうえで、ご自分が与えた信仰を「あなたの信仰」と呼んでくださる。そう呼んで、喜んで祝ってくださるのです。

【安心して行きなさい】

主イエスは女性を「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(34)と遣わされました。「健やかでいなさい」は、「病気にならないように衛生に気をつけない」という意味ではありません。主イエスは、「さあ、わたしとの交わりのうちに行け。たとい病が、死が待ち受けているとしても、もはやあなたは神と人との断絶に苦しむことはないのだ。そのためにわたしは十字架に死に、そして復活する。そしてあなたとともに行く」と言われたのです。

女性はこのみ言葉によって生きたことでしょう。人びとに証ししたのは、ただ、病気が治ったということではなかったはずです。自分を見つけ出し、神の子としてくださったまことの神イエス・キリストを語り続けたにちがいありません。語りながら、神と人とを愛して生き、そして、復活の希望のうちに死んでいったことでしょう。

私たちにも、この朝、主イエスの「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」とのみ声が響いています。