2020年8月23日の説教要旨

2020年8月23日
第四主日礼拝
説教「驚くべきお方」
マルコの福音書6章1-6節

【驚かれたイエス】

主イエスは驚くべきお方。それなのに主イエスが驚かれました。「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」(6:6)とあります。私たちはここを読むと、「主イエスも不信仰には驚くのだ。あきれるのだ。自分は不信仰ではないだろうか。主イエスにあきれられないだろうか。」と考えたりします。この世界は不信仰に満ちています。だからこそ主イエスは来られたのです。不信仰にいちいち驚かれるはずはありません。ですから、ここで主イエスを驚かせた不信仰は、ただ主イエスを信じない、という不信仰ではなかったのです。

【主イエスの嘆き】

主イエスを驚かせたのは「郷里」(1)の人びとの不信仰でした。彼らはただ信じなかったというのではありません。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。」(2)と言っていますから、主イエスのことばとわざにふれたのです。否定しようのない神の国の宣言に立ち会ったのです。

けれども彼らはその驚きをたちまち打ち消そうとします。「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」(3)と言い、イエスにつまずいたのでした。マリアの子というのは独特の表現です。当時は仮に父親が召されていたとしても、父親の名前で呼んでいましたから、イエスはヨセフの子、と呼ばれるはずです。それをあえてマリアの子と呼ぶのは、主イエスはマリアがまだ結婚していなかった時の子どもであったことを、彼らが知っていて、さまざまな憶測をしていたことを意味します。「イエスは特別な人ではない。そんなわけがない。大工で父親がだれかもわからないこの男が、特別な存在であるわけはない。」と、自分たちが実際に見聞きしたできごとを、むりやり押しつぶすようにして、拒絶したのです。自分たちの常識を変えるぐらいなら、実際のできごとを受け入れないことを選んだのでした。主イエスの驚きは、たんにびっくりしたというのではないでしょう。人びとのかたくなさへの痛みがこもった嘆きであったことでしょう。

【信仰の創始者】

それにつけても主イエスの郷里の人びとと前章の会堂司ヤイロや長血の女性のたどった道は対照的です。郷里の人びとは主イエスを拒み、主イエスは「何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。」(5)のです。これは主イエスが奇蹟を行う力を失ったということではありません。どんなに奇蹟を行っても、人びとが神の国を拒絶するなら、意味がないのです。それで主イエスは奇蹟を行うことをなさらなかったのでした。

けれども、会堂司ヤイロは主イエスについて行き、長血の女性は「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(5:34)と主イエスに言っていただきました。もともと彼らは、現世利益のように主イエスのいやしを求めただけでした。神の国のことなどどうでもよかったのです。そんな彼らに信仰を与えたのは主イエスです。へブル人への手紙にこうあります。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(12:2)と。信仰はどこから生まれるのか。それは自分の内側からではありません。信仰を創りだし、それを与え、成長させてくださるのは主イエスです。私たちがすでに始まっている神の国を拒絶したままで終わることがないように、私たちをあわれんで、なんとしてでもいのちを与えようとして。さきほどのへブル人への手紙はこう続けます。「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」主イエスの喜びとはなにか。それは父との交わり。そしてその交わりのうちに私たちをおらせること。そのために、ご自分を十字架に与えてくださったのでした。信じることができない私たちのために。自分の力で信仰を生み出すことができない私たちのために。

主イエスの郷里の人びとがやがて信仰に導かれたかどうかはさだかではありません。けれども、イエスの母マリアや「ヤコブの手紙」を書いたとされるヤコブはやがて主イエスを受け入れることになりました。それは主イエスが驚いただけで終わるお方ではないからです。人びとの拒絶に痛みを覚えながらも、あきらめないで愛し続け、信仰を創りだし、信仰を与え、信仰を成長させてくださる驚くべきお方なのです。

私たちも人びとに、とくに身近な家族などに福音を語るとき、拒絶されることがしばしばです。主イエスでさえも拒絶されたのですから、怪しむにはあたりません。けれども主イエスはそんな人々にも信仰を創りだすことができます。神の物語を語り続けましょう。神の胸の中で抱かれながら。