2020年9月6日の説教要旨

2020年9月6日
第一主日礼拝
説教「遣わしてくださるお方」
マルコの福音書6章6-13節

【あきらめない主イエス】

このたびの事故でみなさんにはたいへんご心配をおかけしました。痛みはありますが元気でいます。お祈りに感謝しています。さて、一週とびましたが、先々週のところで主イエスが郷里の人びとの不信仰に驚かれ、痛みを覚えられたことをみました。その後、主イエスがなさったことが今日の箇所です。「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」に続いてすぐ、「それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。」(6)が続きます。そして「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて」(7)と。つまり主イエスは人びとの不信仰に驚かれたけれども、あきらめたのではありませんでした。そうではなくて、弟子たちとともになお働かれたのです。周囲に福音が輝き、その輝きがやがて郷里をも照らすことを願われたのでしょう。

火曜日の朝、草野姉がお迎えに来てくださいました。少し前に教会を外から見ようと思って表に出ました。すると有松兄が書いてくださった看板が目に入りました。「遣わしてくださるお方」と。私がどこかへ行くときそれは主イエスが遣わしてくださるのだと感じました。やがて手術台に横たわり、今から麻酔を、というときにスタッフの方がたにお願いして、手術のため、スタッフと家族のため、病院にいるすべての人のため、世界のために祈ることができました。主イエスに遣わされ、主の名において祝福を宣言できたのです。

【二人ずつ遣わす】

主イエスは弟子たちを二人ずつ遣わされました。二人は心強いことですが、難しいことでもあります。そこにねたみや争いといった弱さが噴き出るかもしれません。相手を支配したり、相手に依存したりするようなたがいのゆがみが現れるかも知れません。困難な旅であれば実に自然なことです。けれども、遣わしてくださる主イエスはそんな旅をとおして、二人を成長させてくださいます。私たちもそうです。仲間や夫婦や親子など、主イエスが共に遣わしてくださるとき、そこに自由あふれる、それでいて調和したチームを作り出してくださいます。福音のいのちがそうするのです。それを見るとき、人びとは福音がなにであるかを見ることになります。回復されつつある神の子どもたちによって。

【主イエスに養われ、その場所で】

「そして、旅のためには、杖一本のほか何も持たないように、パンも、袋も、胴巻の小銭も持って行かないように、履き物ははくように、しかし、下着は二枚着ないようにと命じられた。」(8-9)とあります。持ち物のことだけではないでしょう。弟子たちが働きを出すことができるのは主イエスが遣わされるからです。彼らが能力を持っているからではなく、特別な人だからでもありまさえん。私たちも「私には力がありません。知恵がありません。祈りが足りません。みことばを蓄えていません。」とないものを数え上げてはなりません。主イエスが遣わされるのです。必要なものは備えてくださっています。

「また、彼らに言われた。『どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまりなさい。』」(10)とあります。私たちにはそれぞれ遣わされた場所があります。家庭や職場や地域や学校がその場所です。それぞれの場所で何年もクリスチャンであることの証しを重ねても、なかなか人びとが福音に導かれないことも多くあります。けれどもその一日一日はむだではありません。その一日一日に私たちは、福音のいのちになおなお進んでいきます。そして周囲の人びとはその成長を感じるときがくるのです。主イエスが遣わされたのですから無駄な日など一日としてあるわけがないのです。聖霊の静かで深い働きかけがそこにあるのです。

【主による権威】

「こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。」(12-13)とあります。「彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」(7)とも。この権威は主イエスの権威です。

実はマルコの最後のところにも弟子たちの派遣の記事があります。「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。』」(16:15)と。遣わされた弟子たちは「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(16:20)とあります。十字架に架かり、復活して「天に上げられ、神の右の座に着かれた」(16:19)ゆえに権威あるお方。私たちをあわれみ私たちを放っておくことができなくて、自らの権威をとん着されなかったお方が、それだからこそ圧倒的な権威をもって、私たちとともに働かれるのです。それは主がこの世界をあわれんでそのまま見ていることがおできにならないからです。

今回もいつものように多くの失敗や判断の誤りをおかした私です。けれども手術から一夜明け、水曜日に枚方の朝川先生に迎えに来ていただいて教会にもどった私を看板が迎えてくれました。「遣わしてくださるお方」と。ですから、私は今朝も主の御名による派遣を宣言することができます。私自身の多くの弱さや愚かさにもかかわらず。さあ、行きなさい。主によって遣わされて。復活の主とともに、行くのです。