2020年9月13日の説教要旨

2020年9月13日
第二主日礼拝
説教「語りかけてくださるお方」
マルコの福音書6章14-29節

【喜んで耳を傾けていたヘロデ】

ご心配をおかけしています。金曜日に抜糸をしました。順調に回復しており肩のリハビリも始まっています。ひざのほうは体重をかけてはいけないということで、教会の二階で生活しています。お訪ねくだされば二階の窓からヒモにつけたカギを降ろします。みなさんのお顔を拝見したいと思いますので、どうぞお訪ねください。

さて、ヘロデ。この事件はなんともいいようがないものです。少女がバプテスマのヨハネの首を欲しがる。そこには母へロディアの自分を守りたいという思いやバプテスマのヨハネへの恨み(19)がありました。また、ヘロデはとても軽率に踊りを踊った少女に「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」(22)、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」(23)と誓います。国を治める者としての資格に欠けるごうまんな姿をここに見ます。しかも結局は「自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって」(26)バプテスマのヨハネを殺してしまいます。心ならずも。自分の体面のために神さまが遣わされた預言者を殺してしまったのです。ほんとうにどうしようもない罪びとのありさまがここにあります。私たちだったら、この男だけは救われない、と断じるところです。

ところが、神さまの目線はちがいました。「それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。」(20)や「王は非常に心を痛めたが」(26)を、神さまは見逃しておられないのです。神さまはヘロデに神の国の入り口を見せておられました。だからヘロデは福音を聴いて喜んでいました。けれども福音のいのちが、これまでの自分の生き方を方向転換させることを感じて当惑していたのです。そしてとうてい赦されることなどあり得ない罪を犯してしまいました。十字架でなければ赦されない罪を。

【もう一度のチャンス】

こうしてどん底にまで落ちてしまったヘロデはある日、不思議なことを聞きます。主イエスです。人びとが主イエスのことを「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」(14)とか「彼はエリヤだ」「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」(15)などと言っていたのです。

ヘロデは「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」(16)と言います。バプテスマのヨハネを昼も夜も忘れることができないでいたのでしょう。けれども、このときヘロデの胸中にあふれたのは後悔と恐れだけではなかったはずです。バプテスマのヨハネが語った福音もまた思いだされたのにちがいありません。「バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」(1:4)がそれです。「私よりも力のある方が私の後に来られます。」(1:7)というところまではこのときはまだ理解できなかったようです。けれどもヘロデはかって自分が喜んで耳を傾けていた福音を再び思い起こしたにちがいありません。とりわけ罪の赦しのよき知らせを。

ヘロデがこの後、どのように行動したかは私たちには知らされていません。けれどもヘロデの家にはその後、主イエスに従う者が起こされたことを私たちは知っています。使徒の働きです。「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。」(13:1)のです。神さまのあわれみはヘロデとその周辺から離れることがありませんでした。

【何度でも、何度でも、何度でも、愛】

主イエスのあわれみは私たちを離れることがありません。8月に私の説教集の第二巻「天からのはしご」が発刊されました。これはモーセ五書をあつかう全八巻のシリーズなのですが、第五巻は民数記。タイトルは「何度でも、何度でも、何度でも、愛」です。民数記で際限なく反抗を繰り返すイスラエルに神さまの愛は、どこまでも注がれました。このことをお忘れになりませんように。あなたが自分など、と思うまさにそのときに、神さまの愛は何度でも、何度でも、何度でも注がれ続けるのです。主イエスを十字架に架けた愛、そして十字架に架けられた主イエスの愛です。

その愛はバプテスマのヨハネを貫いていました。ある説教者はこう語っています。「ヨハネはヘロデを愛していたのだ。彼の言葉は愛の言葉だった。だからヘロデはそれをちゃんと聞くことができたのだ。このヨハネは、いつもこわい顔をして人の罪をなじってばかりいた人ではない。自分を迫害し捕えている王に対して、愛を込めて懇ろに、あなたは罪人です、早く悔い改めなさいと語ることができた人なのだ」と。私たちもそのように語りかけることができる人とされています。なぜなら、主イエスがいつも私たちにそのように愛の言葉を語りかけてくださっているからです。