2020年9月20日の説教要旨

2020年9月20日
第三主日敬老礼拝
説教「もちいてくださるお方」
マルコの福音書6章30-44節

【さあ、休みなさい】

ご心配をおかけしています。続いてリハビリを受けながら順調に回復しています。こうして教会の二階で療養していますとまったくどなたにもお会いしない日というのもあります。そんなとき「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」(31)という主イエスの招きを聴く思いがします。

「さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。」(30)とあります。くちぐちに自分たちが主イエスのみ名によってすばらしい福音の宣教をすることができたと報告したのでしょう。高揚した様子が目にみえるようです。彼らは、「もっともっと働きたい。神の国の前進に貢献したい。」と思ったことでしょう。けれども主イエスはとどめられました。ご自分のもとにとどまることを命じられました。実際は、この後彼らは主イエスのもとでパンと魚を配ることに忙しくなります。物理的には休んでいないのです。主イエスの与える休みは、体を休めることもさることながら、なにより主の胸に抱きしめられること。主イエスの体温で温められ、主イエスの鼓動を感じることです。そんな休みを持たない働きは必ずゆがんでいきます。人の評価に駆り立てられる生き方へと簡単に変質してしまいます。そうして福音のいのちを失ってしまうのです。

【内臓が揺り動かされる!】

弟子たちが主イエスのもとにとどまって、まず見たのは「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」(34)そんな主イエスのお姿でした。この「深くあわれみ」はただ「かわいそうに思った」ということばではありませんでした。この言葉は「内臓が、はらわたが、揺り動かされる」という意味で、新約聖書では主イエスご自身にのみ用いられることばです。弟子たちが見たのは「はらわたを揺り動かされる」ようにして、福音を必要としている人びとに心を動かしてくださる主イエスでした。この愛がついには主イエスを十字架へと突き動かしていくことになります。この愛は弟子たちにも注がれていました。この愛が、弟子たちを新たな宣教のいのちに満たしました。このはらわた痛む愛が、私たちにも注がれています。

【わたしが、あなたがたを通して、あの人たちに】

主イエスのもとにとどまった弟子たちが主から見せられた第二のこと。それは神のわざは「主イエスが」行うことでした。主イエスは「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」(37)と命じます。これは弟子たちが忘れかけていたことを思いださせるためでした。そもそも弟子たちは主イエスが遣わし、彼らを通して主イエスが神のわざを行います。ところが弟子たちは「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」(37)と答えます。自分たちがそんなことをすることはできない、と。弟子たちの中にはかんちがいがありました。自分たちが自分たちの力で神のわざを行ったように錯覚していたのでした。

主イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人の男とそれ以上の女と子どもを満腹にされました。この圧倒的な力は神のわざです。弟子たちにはけっして行うことができないわざです。弟子たちは「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」(37)と言い、パンと魚の数を数えたときからそのことをよく知っていました。私たちも自分の限界を知るときに目の前の試練を超えることなどできないとしゃがみこむことがよくあります。けれども「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。」(41)とあります。弟子たちはわけがわからないまま、命じられたとおりにパンと魚を人びとに配りました。するとだれも見たことがないわざが起きたのです。主イエスが起こされたのです。

目の前の試練に恐れ、しゃがみこむときにこのことを思いだしてください。(1)主イエスがわざを起こされること(2)その方法は私たちの思いをはるかに超えているので私たちには予測できない。それでも起こる。(3)主イエスは私たちを抜きに働かれない。私たちを通して、私たちをもちいてこの傷ついた世界に回復をもたらされる。だから弟子たちは「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」(37)と命じられたときに「いえ、主よ、あなたがしてください。私たちをもちいて。あの人たちに。」と申し上げるべきでした。私たちもそのように、と思います。

【神さまの教会】

十人の弟子たちが配ったパン。「パン切れを十二のかごいっぱいに集め」(43)とあります。十二はイスラエルの十二部族を想起させます。ですから、キリスト教会は伝統的にこの箇所を新しい神の民である教会だと教えてきました。

神学校校長の鎌野直人先生の新刊「神の大能の力の働き」が好評です。エペソ人への手紙の講解書です。そこで鎌野先生は私たちの教会は幼い教会なのだと言います。けっして完全な教会など地上には存在しないのです。私は目からうろこが落ちたように思いました。そして同時に思いました。けれども、神さまがその不完全な教会をもちいて、世界に回復をもたらしてくださるのだな、と。そしてうれしくなりました。私たちがここに置かれていることには意味があるからです。私たちの思いをはるかに超えたすばらしいわざを、神さまが私たち抜きにではなく、私たちをもちいてこの世界に起こしてくださるからです。