2020年10月4日の説教要旨

2020年10月4日
第一主日礼拝
説教「自由を与えるお方」
マルコの福音書7章1-13節

【なんたる皮肉な…】

お祈りに感謝です。先週から歩くことをゆるされ、少しずつ距離を伸ばしています。もうすこししたら自宅に帰ることができそうです。続いてお祈りください。さて、今日は「パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たち」(1)に語られた主イエスのお姿から聴きたいと願います。

彼らはイスラエルの人びとを導く律法の専門家、とくにエルサレムの律法学者たちは権威ある存在でした。ところが彼らは主イエスをとがめます。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」(5)は主イエスを糾弾することば。民に神を指し示すべき彼らが、人となられた神である主イエスをとがめるのです。これはなんたる皮肉でしょうか。

【主イエスの厳しさ】

彼らに対する主イエスの答は厳しいものでした。彼らは「偽善者」(6)で、「口先でわたし(神)を敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(6)のであり、「人間の命令を、教えとして教える」(7)と断じました。いつもなら、弱い者、わからない者、罪ある者をあわれむ主イエスがこのように怒られたのは意外です。その理由はイスラエルの民を神に会わせることが使命の彼らが、民に神さまがいかなる方かを知らせることなく、逆に民を神から遠ざけているからでした。

彼らは主イエスの弟子たちを「昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べる。」(5)と言ってさばきます。けれども「食事の前に手を洗え」という教えは律法(モーセ五書)のどこにもありません。彼ら自身も「昔の人たちの言い伝え」と言っています。律法にあるのは神さまの前で特別な儀式を行う者は水で体を清めるべきだ、ということだけです。ところが、長年の間に元もとの神に会う喜びは消え、水で手を洗わなければならない、そうしなければ神の不興をかってしまう、そういう言い伝えができてしまったのです。これは神さまと律法へのまったくの誤解によるものでした。神さまは手を洗わないことを咎めるお方ではありません。ただ神さまを「わたしの神」と呼び、神さまともに生き、神さまを愛することだけを望まれるお方。また律法は、そんな神さまと歩く歩き方の教え。いつもまず出エジプト、そしてシナイ山と申し上げるとおりです。

ところが、彼らは自分たちが神を愛することをかん違いしているばかりではなく、人びとにも、神を愛することを教えませんでした。これは主イエスには耐えがたいこと。神さまへの愛が歪められていたからです。彼らの歪みはまわりの人びととの関係にもおよんでいました。コルバン(11)はその例。神さまのみ名をみだりに用いて、親への愛を惜しんでいる彼らへの告発です。

【だから十字架に】

 この告発は痛烈でしたから、彼らの反論は記されていません。おそらく沈黙するほかなかったのでしょう。けれども、だかと言ってその後、彼らが主イエスの働きを認めたか、といえば、そうではありませんでした。そもそも、彼らがやって来たのには主イエスを咎める意図がありました。そこには自分たちの権威を守りたいという恐れがありました。主イエスの驚くべき教えとわざに心を開くことができない頑なさがありました。そんな恐れや頑なさに縛られて、食事の前に手を洗うかどうかという、どうでもよいことを、問題にしたのでした。神さまを見失い、神さまと生きる喜びを忘れた人の姿です。喜びを忘れ、他の人からも喜びを奪ってしまう痛みに満ちた姿です。

【自由を与えるお方】

主イエスが来られたのは、まさにそこから私たちを解き放つためでした。彼らに対する厳しさは彼らに対する愛の大きさの裏返しです。「あなたがた民の牧者たち。目をさませ。昔の言い伝えと神への誤解から自由になりなさい。神を喜び、民にも神を喜ぶことを教えてやりなさい。」と。そして彼らにも福音を、あますところなくお伝えになったことでしょう。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)と。このとき、彼らは受け入れなかったかもしれません。けれども私たちは知っています。ヨハネ3章で夜、主イエスのもとにやってきたニコデモ。彼もパリサイ人でした。そのニコデモはやがて、白昼、十字架から降ろされた主イエスのもとに来ます。「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。」(ヨハネ19:39)。主イエスを愛したのです。恐れからも、しがらみからも解き放たれて。そんな自由を与えたのは主イエス。私たちのために十字架に架けられることを厭われなかった主イエスです。そんな自由をいただいたみなさん、おめでとう。思い切り神と人を愛してください。その自由を用いて。