2020年10月11日の説教要旨

2020年10月11日
第二主日礼拝
説教「分からせてくださるお方」
マルコの福音書7章14-23節

【神さまの花嫁】

お祈りに感謝いたします。鎖骨が完全にくっつくためにはもうしばらくかかるようですが、リハビリのほうは肩もひざも最終段階のようです。

さて先週の続きです。そもそも律法には、特別な儀式の前には全身を水で清めることが教えられています。神の花嫁として自発的に身をきよめて神に会う備えをするのです。ところが主イエスの時代のパリサイ人や律法学者たちの中には、この愛の教えを誤解し、食事の前に手を洗わなかった弟子たちのことで、主イエスを咎めました。民を神に会わせる使命の彼らが、人となられた神である主イエスを非難して人びとを遠ざけようとしたのです。主イエスは激しく怒ります。そして彼らは「見事に神の戒めをないがしろにしています。」(9)と痛まれたのでした。しかし、その痛みは十字架へ続く痛み。十字架をとおしてあのパリサイ人のニコデモもいのちの中へと招きいれられたのでした。

さて主イエスはこのとき「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」(14)と語りました。意味がわからなかった弟子たちの問いに答えてくださったのが今日の箇所です。

【中から出てくるもの】

ここでは汚(けが)れが問題になっています。汚れとは神さまと私たちの愛をさまたげるすべてのものであり、私たちたがいの愛をさまたげるすべてのものです。主イエスは、問題は「外から入って」(14)くるものではない。とおっしゃいました。洗わない手で食べた食物が私たちの愛をさまたげるのではないのです。つくられたすべてのものはよきものです。すべての食事は神を喜び、たがいを喜ぶ祝宴。そのために用いるべきよきものなのです。

けれどもそんな祝宴が汚(けが)れてしまうことがあります。神と人への愛がさまたげられてしまうことがあるのです。先週見たコルバンもそうです。父母のものをかすめ取るようにしてささげたものを神さまは喜ばれません。かすめ取られた父母との関係にも汚(けが)れが、さまたげられた愛が、しこりとなります。いったいそんな汚れはどこから来るのか。「それはあなたの外側にあるのではない。あなた自身の中から出て来るのだよ。」と主イエスはさとされたのでした。「パリサイ人たちが主イエスを責めたのも自分たちの権威を守ろうとする保身と主イエスへのねたみによるものでした。彼らの中から出たものです。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(20-23)とありますが、そのうちの貪欲やねたみ、高慢、愚かさなどが彼らの内から噴き出したのでした。

【悪い目の私たち】

私たちはみな神さまが創られ、非常によいと喜ばれたひとりひとりのはずです。なぜその私たちの中から悪い考えが出て来るのでしょうか。

「ねたみ」は原文のギリシア語では「悪い目」です。悪い目で人を見ることです。神さまが造った、神さまのたいせつな兄弟姉妹を、悪い目で見る。自分の立場や権威を脅かす競争相手として恐れる。パリサイ人たちは、主イエスをそんな悪い目でみました。あるいは逆にくみしやすいと感じるとむさぼり利用する相手としてあなどる。どちらも悪い目です。私たちの目がこんなに悪くなってしまったのはどうしてなのでしょうか。それは神さまを知らないで神さまに背を向け、自分を守るのは自分だけだと思ってきたからです。ほんとうは神さまの胸の中に抱かれて安心して、周りの人びとを神さまに愛されてひとびと、神さまのたいせつな人びととすることができたら、私たちの目は悪くなることはありませんでした。自分を悪い目で見る人をも神さまの救いを必要としている人として良い目でみることができたはずだったのです。

【良い目の主イエス】

けれどもそんな私たちのために主イエスは来てくださいました。私たちが悪い目でたがいを見て、傷つけ合うことをほうっておくことができなくて。そして私たちをその良い目で見つめ続けてくださいました。十字架の上でも「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と。裏切りの口づけをしたユダさえも。それは今も同じです。この主イエスのまなざしの中で、私たちは日日良い目に作り変えられ続けています。主イエスのように父を良い目で見、主イエスのように仲間を良い目でみるように。み言葉の湯治と仲間と生きるリハビリによって。