2020年10月25日の説教要旨

2020年10月25日
第四主日礼拝
説教「耳を開いてくださるお方」
マルコの福音書7章31-37節

【異邦人の地で】

先週は、診察もリハビリもありませんでした。そろそろ病院通いも終わりに近づいているようです。ほんとうにご心配をおかけしました。お祈りに感謝いたします。

今日の箇所で主イエスは「再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。」(31)とあるのですが、これは不思議な道順です。シドンからガリラヤ湖に行くのにデカポリスを通る必要はないというか、デカポリスはガリラヤ湖へ行くには行き過ぎなのです。

ツロ、シドン、デカポリスには、みな異邦人の地であるという共通点があります。主イエスがこうした旅をしたのは異邦人伝道のためではありません。「イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられた」(24) とあるように、むしろ多忙の働きから離れて、弟子たちと過ごすこと、そんな中でじっくりととても大切なことを伝える準備をようとしたのではないかと思うのです。その大切なことは8章にあるご自分の十字架でした。

【その人だけを群衆の中から連れ出し】

 そこへ人びとが「耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。」(32) とあります。このとき主イエスは「イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し」(33) ました。その人と一対一の人格的な関係をもたれたのです。主イエスの癒しはただの肉体の癒しではありません。主イエスに出会った人が、自分の存在を歪めている罪の力から解き放たれていくことが、ほんとうの癒し。肉体のいやしはそのほんの一部分にすぎません主イエスは私たちと一対一で向き合い、私たちの心の深いところに触れていやしてくださいます。もうそんな癒しを私たちのうちに始めてくださっているのです。

 主イエスが「ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた」(33) ことはこの人のたましいを揺さぶったことでしょう。「天を見上げ、深く息をして」(34) ともあります。「深く息をして」はローマ書にでは「うめく」と訳されていることば。「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」(8:22-23)と。苦しみうめいているこの人に、主イエスはご自分を重ねるようにしてうめいてくださったのでした。そのうめきはやがて主イエスを十字架に上げることになります。私たちのうめきを癒すために、主イエスは十字架に架かってくださいました。自らすすんでそうしてくださったのでした。

【開け!】

 主イエスは「その人に『エパタ』、すなわち『開け』と言われた。」(34) とあります。エパタは「開け」と訳されていますが、正確には「開かれ解放されてあれ」です。私たちの耳を閉ざしているものがあります。神の言葉をきちんと聴くことができないように縛り付けているものがあります。恐れやねたみ、劣等感やプライドなど。主イエスは私たちをそこから解き放ってくださいます。そして神の恵みの言葉を、「あなたはわたしの子だ」という言葉をきちんと聞けるようにしてくださるのです。

 「耳が聞こえず口のきけない人」(32)の「口のきけない人」は、もともとは「言葉に困難がある」という意味。つまりこの人は声を出す機能には障害はないのですが、耳が聞こえないためにしゃべることができなかったのです。美しい言葉を聞いて、その言葉を自分の口から出すことができなかったのです。けれども主イエスは彼の耳を開き、美しい言葉を聞かせてくださいました。私たちにもそうしてくださっています。だから私たちはもうすでに美しい愛の言葉を語り始めています。これからもますます私たちの言葉は美しくなっていきます。神の愛の言葉、仲間の愛の言葉を聞き続けて。