2020年11月1日の説教要旨

2020年11月1日
第一主日聖餐礼拝
説教「恵みを覚えさせてくださるお方」
マルコの福音書8章1-21節

【四千人の給食】

先週は、最後のリハビリでした。来週の診察で病院通いも終わりになるようです。ほんとうにご心配をおかけしました。お祈りに感謝いたします。

今日の箇所は、6章の五千人の給食と対比して四千人の給食と呼ばれる個所です。この後、イエスは「すぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方に行かれた。」(10) とあります。ダルマヌタはデカポリスのガリラヤ湖対岸。ですから四千人の給食はデカポリスでのできごとです。先週、デカポリスは異邦人の地であると語りました。五千人の給食とのちがいもそこにあります。五千人の給食はユダヤ人、四千人の給食は異邦人に対してでした。主イエスが弟子たちに「わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」(19)、「四千人のために七つのパンを裂いたときは」(20) と問い、それに対して「十二です。」「七つです。」と答えさせているのはたいせつです。それぞれイスラエルの12部族と世界の人びとを象徴するユダヤの完全数七をあらわしているからです。つまり二つの給食を通して、主イエスはイスラエルから始まった世界の回復がやがて全地に及ぶことを語られたのでした。それはアブラハムに与えられた約束の成就でした。神さまのあきらめない愛によって、そのあわれみが人の罪によって紆余曲折を経ながらも、こうして実現していったのでした。

【パリサイ人のパン種とヘロデのパン種】

主イエスはこのことを弟子たちの心に刻みたいと願われました。ところが弟子たちは、舟の中にパンが一つしかないことでもめ始めます。「すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた」(16) とあります。パンがないのはだれの責任か、というようなことでしょう。その議論は、主イエスが「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(15) と言った後も続きます。パリサイ人はしばしば主イエスを試みました。主イエスをテストしてさばくのが、パリサイ人のパン種。ヘロデはローマにこびて自分を守った人です。ヘロデのパン種とは、主イエスを信頼しない生き方。そこがパリサイ人との共通点。両者とも主イエスによって、イスラエルから世界へと回復が及ぶことを知らないのです。

【覚えていないのですか】

舟の上での弟子たちのふるまいも、また、まるで世界の回復が始まったことを忘れているかのようです。ですから主イエスは「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。」(17) とおっしゃいました。パンを忘れたことはたいせつなことではない、どうでもいいことだからです。そして「まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」(18) と厳しい言葉を連ねました。それは彼らがどうでもいいことから目を離し、主イエスに目を注いで、いちばんたいせつなことを思いだすためです。忘れないでいるためです。世界の回復が、もう主イエスによって始められていること、それが、そのいちばんたいせつなことなのです。

私たちもときに、このいちばんたいせつなことを忘れてしまいます。祈りがすぐにきかれないように思えるときには、神さまなにをしておられるのだろうか、と思います。パリサイ人のパン種です。けれども神さまが祈りをきかれないのは、私たちの願うよりももっとすばらしいことを与えるためです。主イエスのゲッセマネの祈りがそうでした。神さま以外の力に頼もうとするなら、それはヘロデのパン種。しかしそれは、もっとも必要なタイミングでことをなしてくださる神さまのさまたげとなります。パンくずの入った12のかごと七つのかご。忘れないでください、それぞれのかごにいっぱいの神さまの恵みを。世界の回復のための恵みは、あなたのうちにすでに始まっています。