2020年11月8日の説教要旨 晴天なら11時、雨天なら10時15分開始です。

2020年11月8日
第二主日召天者記念礼拝
説教「目を上げさせてくださる方」
マルコの福音書8章22-26節

8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。

8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。

8:24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。

8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。

8:26 そこでイエスは、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた。

【手を取って】

召天者記念主日礼拝にようこそいらっしゃいました。この朝、私たちは先に召された、愛する人びとを思っています。けれどもここで記念するのは彼らではありません。彼らは復活して私たちとまた会うのですから、もう会えないかのように記念する必要はないのです。記念するのは主イエスが彼らを愛してくださり彼らに与えてくださった恵みです。

今日の聖書の箇所にも主イエスに愛された人が出てきます。目の見えない人です。主イエスは「手を取って村の外に連れて行かれた。」(23) とあります。ほかの人のいないところで、この人と一対一の関係を結んでくださったのです。私たちの愛する、先に召された方がたも、そのように主イエスと一対一の関係を結んでいただいたのでした。主イエスは神。神さまが私たちの愛する人びと、そして私たちに対して、一体一で「わたしのたいせつなあなた。わたしはあなたを愛する。」と語りかけてくださった。私たちもまた一対一で「あなたが私の神です。私はあなたを愛します。たいせつにします。」と答えることができた。それは私たちから出たことではありません。私たちが信仰深かったからではありません。イエスが私たちの手をとるようにして、私たちに会ってくださった。先に召された方がたにお会いくださいました。このことを祝いましょう。

【唾をつけ、両手を当てて】

主イエスは、この人の「両目に唾をつけ、その上に両手を当てて」(23) 癒してくださいました。言葉だけでも癒すことはできたでしょう。けれども、主イエスが自分の目に、もっとも弱いところに、触れてくださるのを感じたとき、この人の心が開かれました。目が開くよりもさきに、心が主イエスに向かって開かれたのでした。二千年前に、主イエスがこの世界に来られた目的は、私たちに永遠のいのちを与え、ご自分との永遠の愛に導き入れるためでした。肉体が癒されても、人はいつか死にます。けれども主イエスは私たちといつまでもともにいたいと願ってひとりひとりに出会い、関係を結んでくださるのです。そのために私たちの心を開いてくださるのです。

【目を上げて】

 主イエスが「「何か見えますか」(23) と言われたのは「もう見えるはずだ。見てごらん。」という励ましの言葉でした。「すると、彼は見えるようになって」(24) の「見える」は「目を上げて」が素直な訳です。この人は主イエスに励まされて、見えないはずの目をあげました。見えない自分にうなだれていた目を上げたのです。すると見え始めたのです。私たちもみな愛する人びとを先に天に送ったひとりひとりです。その痛みに目を伏せ、またコロナやさまざまな現実の中で目が閉ざされてしまうことがよくあります。ほんとうに見るべき主イエスが見えないで、右往左往してしまうのです。

けれども、主イエスはそんな私たちを、そして先に召された、愛する人びとの手をとって一対一の関係に導きい入れ、その痛みや困窮に手をおき、心を開き、心の目を開いて主イエスを見上げることができるようにしてくださいました。死を超える永遠のいのちを与えてくださったのです。

【主の日に】

ですから先に召された私たちの愛する人びとは死んだままではありません。二度と会えないのではないのです。主イエスが十字架に架かって死に、けれども、三日目の日曜日の朝に復活したからです。それ以来、教会は日曜日を主日、すなわち「主の日」と呼ぶようになりました。年に一度の召天者記念主日礼拝だけでなく、私たちは毎週主日に礼拝に集います。そのたびごとに目を上げて永遠のいのちを新たにしていただくのです。愛する人びととの再会の日を心待ちに。