2020年11月29日の説教要旨

2020年11月29日
待降節第一主日礼拝
説教「ついていかせてくださるお方」
マルコの福音書8章31-38節

【人の子とは】

先週は、子どもたちとその家族の方がたといっしょに、ピリポ・カイサリアでの一番たいせつな問い「わたし(イエス)はだれか?」と、その答「キリスト(救い主)です」を聴きました。ペテロの答に続いて、「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け・・・」(31) とあります。この「人の子」はただ「人間の子」という意味ではありません。ダニエル書にこうあります。

・・・見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7:13-14

つまり「人の子」とは、ユダヤ人たちが待ち望んでいた救い主、を意味する言葉なのです。

【捨てられる救い主】

続いて主イエスは、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」(31)と、弟子たちに教え始められました。「救い」は主イエスの犠牲の死によってなしとげられると言ったのでした。

今日から待降節。コロナの中ですが、それでもなんとかお祝いができないかと役員の方がたと語り合っています。喜びのクリスマス。でもクリスマスは十字架への道の始まりでもありました。イエスをキリスト(救い主)と告白する者が知っておかなければならないことがあります。それは主イエスは「捨てられ」(31)、十字架の上で救いをなしとげられることです。神が人に捨てられる!そのことを主イエスは教え始めたのでした。

【叱るペテロ】

ところが「・・・するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」(32) とあります。「わきにお連れして、いさめ始めた。」は、「連れ出して叱り始めた。」というもっと強い言葉です。ペテロは「三日後によみがえらなければならない」(31) の部分は耳に入っていないようです。自分で勝手に、栄光の救い主をイメージして、主イエスをそのイメージに従わせようとして叱ったのです。イエスをキリスト(救い主)だと告白したペテロ。そのペテロが「主イエスよ、あなたは十字架に架けられるなどと言ってはならない。あなたは栄光に輝いて世界を支配しなければならない。そういうあなたのそばに私はいたいのだ。」と言うのです。ペテロは、敵から富や土地を奪い、味方に分け与える地上の王のようにイエスを考えていたのでした。

【叱られるペテロうしろをついて】

そんなペテロを主イエスは激しく叱りました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(33)。サタンは人の弱みにつけこんで、神さまから引き離そうとする存在です。ペテロはまるでサタンの手先であるかのように、十字架を阻もうとします。主イエスに十字架の救い主であってもらいたくなかったし、自分も十字架の救い主の弟子でありたくなかったからです。けれどもペテロのしようとしていたことは世界の救いをとどめようとすることでした。せっかく地上に来てくださった御子イエスの降誕を無にすることだったのです。

【イエスの後ろに】

主イエスはペテロに「下がれ、サタン。」と言いました。これは「お前など、どこかへ行ってしまえ。」ではありません。「わたし(イエス)の後ろにまわれ。」ということば。かつてペテロはガリラヤ湖で網を打っていたとき、「わたしについて来なさい。」(1:17)と招かれました。主イエスはまるでそのときを思いださせるように「わたしについて来なさい。わたしの前に立ちはだかり、わたしの使命をとどめるのではなく、あなたの本来の持ち場にもどりなさい。」とおっしゃったのでした。

主イエスの前を歩き、主イエスのおこころを痛めることは悲しいことであるだけではありません。それは主イエスの救いに入れられたはずの私たちが再び、自分の人生の主語を自分にしてしまうことです。そうして神との関係、人との関係を逆戻りさせて、世界の回復をとどめてしまうのです。

十字架の主について行くとき、私たちには不安な気持ちが起きることもあるでしょう。自分に歩み通せるだろうかと心配にもなるでしょう。けれども、主イエスの後ろの道は主イエスが踏んでくださった道です。未開の道ではなく、すでにもう歩むことができるようにされた道なのです。そのために主イエスのみ足は傷つき、血を流されたのでした。だから私たちは主イエスも後ろにまわりましょう。そして主イエスの背から目を離さないでいましょう。私たちの務めはそれだけなのです。