2020年12月6日の説教要旨

2020年12月6日
待降節第二主日聖餐礼拝
説教「十字架に架けられたお方」
マルコの福音書8章31-38節

【自分を捨て】

今日も先週と同じ個所を読みました。主イエスの前にたちはだかるようにして、イエスの十字架への道をさまたげようとしたペテロ。主はペテロに「下がれ、サタン。」(33)と言いました。けれども、これは「お前など、どこかへ行ってしまえ。」ではありません。「わたし(イエス)の後ろにまわれ。」ということば。「わたしについて来なさい。わたしの前に立ちはだかり、わたしの使命をとどめるのではなく、あなたの本来の持ち場にもどりなさい。」とおっしゃったのでした。

そして「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(34) とあの有名なみことばを語られたのでした。このことばは私たちを恐れさせます。「自分を捨てる」とか「十字架を負う」とは、あれをすることだろうか、これをすることだろうかと考えて、あわててしまうのです。けれども主イエスは、そんなふうに私たちを脅かす方ではありません。

キリストの弟子たちは、歴史の中で殉教を強いられる場面もありました。けれども教会は殉教を奨励したわけではないことを知っておく必要があります。2世紀の「ポリュカルプスの殉教」という書物は、殉教は自ら進んでするものではなく、避け得るなら避けるべきこと。それでも神によって選ばれたときに、神がそれを耐え忍ばせてくださると教えています。ですから、私たちは「さあ、自分を捨てるぞ、十字架を負うぞ。」 と意気込む必要はないのです。主イエスの後ろ、私たちの本来の持ち場で、主イエスの背から目を離すことなくついて行けばよいのです。その先には大きな苦痛が待ち受けているかもしれません。けれども、小さなことをていねいに一歩ずつ歩むときに、私たちは整えられていきます。

ペテロは主イエスの前に立ちはだかり、主の道を曲げようとしました。十字架から主イエスを引き離そうとしました。けれども私たちは主イエスの後ろを歩みます。この道の先になにが待っているかは知りません。待っているのは平和で穏やかな日々かもしれません。そうだといいと思います。けれども、思いがけない悲しみや困難が待っているかもしれません。それでも私たちは、道が険しくなったからと言って、主イエスの前に出て、ここから先には行きません、と言って通せんぼするようなことはしません。なぜなら、主イエスが歩ませようとなさっている道が、救いの道であることを知っているからです。それは私たちだけのための救いではありません。傷つき分断され痛んでいる世界の救いです。主イエスは、ご自分の後ろに続く私たちを用いて、世界の痛みを回復していかれます。どうか先々のことを思いわずらわないですください。主イエスの背だけを見て、一歩ずつ歩いてください。それぞれが置かれている場所でていねいに愛してください。未来はその延長上にあります。

ちがう表現をするなら、「自分を捨て、自分の十字架を負って」は、主イエスの胸の中で生きよ、ということになります。「自分を捨て」とは、握りしめている自分の恐れや不安を捨てることです。主イエスの胸に抱かれて。「十字架を負う」ことは、十字架の主イエスの後ろをついていくことですが、それは主イエスの胸の中に抱かれてはじめてできることなのです。

【いのちを】

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」 (35) は、このように読むときに私たちの身近なものとなります。これは英雄ぶって自分のいのちを粗末にするということではありません。自分のいのちを、人生を、主イエスの胸の中にお預けして、主イエスについて行くこと。主イエスの前に立ちはだかったペテロは、自分のいのちを救おうとした人でした。けれども、それは自分と世界の救いを危うくすることでした。けれども、自分を主イエスにゆだねるならば、主イエスはあなたを最高のかたちにお用いになることができます。それはあなたが思う最高とはちがいます。それよりもはるかにすばらしいもので、世界をいやし、永遠の喜びへとつながっていきます。

【群衆を】

これらの言葉を主イエスは、「群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて」(34) 語りました。選ばれた少数の高弟たちにではなく、すべての人を招かれたのです。ご自分の足跡にできた道へ。その道はいのちに続く道。あなたがそこを歩くのを見た人びとが、次つぎと加わってくる道なのです。今から聖餐を行います。パンとぶどう汁は、私たちが主イエスの背をはっきりと見ることを助けます。主イエスは私たちを置き去りにして前に進まれるお方ではありません。こうして私たちを養いながら、進ませてくださるのです。