2020年12月20日の説教要旨

2020年12月20日
クリスマス礼拝
説教「あなたのために来たお方」
マルコの福音書9章9-13節

【メリー・クリスマス?】

いよいよクリスマス礼拝をむかえました。今年はコロナ禍で祝会もできません。とてもさびしく思います。けれども、最初のクリスマス、イエスさまがお生まれになった夜はさらにさびしいときであったことを思います。宿屋には部屋はなく、おそらく洞窟であった馬小屋で飼葉おけの中に。王の宮殿に栄光と力に満ちたありさまではなく、馬小屋にお生まれになった秘密が今日の個所に解き明かされています。

【まずエリヤが】

律法学者たちの疑問もそこにありました。彼らはマラキ書の預言を信じて救い主を待っていました。こうあります。「 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」(マラキ4:5-6)。律法学者たちは、かつて多くの奇蹟を行ったエリヤがふたたび現れて人びとの目を見張らせ、それから救い主が王のように来られると思って待っていたのでした。

ところが主イエスによって「エリヤはもう来ています」(13)と言われたバプテスマのヨハネは、ヘロデによって殺されてしまいました。イエスご自身もどこから見ても普通の人でした。実はそこには、律法学者たちが見逃していた、もうひとつの預言がありました。イザヤ書53節です。主イエスが「それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。」(11)と言ったとき、思い描いておられたのはこのイザヤ53章に描かれている「苦難のしもべ」の姿であったと思われるのです。このようにあります。

彼は蔑まれ(イザヤ53:3 )…まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った(53:4)…彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた(53:5)…彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。(53:12)

【人々は彼に好き勝手なことを】

人びとはエリヤとして来たバプテスマのヨハネを殺し、主イエスを十字架につけます。主イエスはそのことをご存じの上で、今、十字架への道を進んで行きます。主イエスの前に出てとどめようとするペテロを「下がれ!サタン」と叱りながら。それは十字架なくしては救いがないからでした。悪の力が滅ぼされ、私たちが解き放たれて、神さまの胸にもどるためには、どうしても十字架が必要だったからです。

その十字架までは、弟子たちが変貌山で見た主イエスの栄光のお姿は公にされてはなりません。万が一にも主イエスが地上の王にまつりあげられることがないためです。主イエスには堅い決心がありました。それは、私たちが神さまをしらないままで、たがいにつかみ合うようにして生きることがないように、との決心。そのためには、どんなことでもするという決意でした。十字架がなければ救いはありません。十字架がなければ、愛と喜びに生きる私たちはないのです。

【メリー・クリスマス!】

主イエスは、「人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。」(9)のでした。つまり、復活の後は主イエスの栄光は語ってよいし、語るべきなのです。だからメリー・クリスマス!クリスマスおめでとうございます。それはただ主イエスがお生まれになったからではありません。私たちのために、堅い決意をもって主イエスがお生まれになったからです。私たちが愛と喜びに生きるために、なにも惜しまない堅い決意をもって主イエスがお生まれになってくださったからです。私たちのために十字架に架けられた主イエスが、そして復活して今もともにいてくださる主イエスが、お生まれくださったことを、コロナ禍にあっても、いえ、このときだからこそなおさら、喜ぼうではありあませんか。

「その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」(マタイ1:23)