2020年12月27日の説教要旨

2020年12月27日
年末感謝礼拝
説教「信仰を与えるお方」
マルコの福音書9章14-29節

【祈りの本質】

今日の個所に「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」(29)とあります。ここはたいへん誤解されることが多いところです。私たちは自分には祈りが足りない、と思い込んでいるようなところがあります。ですからこういう箇所を、祈りが足りないからもっと祈りなさい、という叱責のように受け止めてしまうのです。けれども主イエスは「祈りが足りない」とは言っていません。「祈りによらなければ」すなわち「あなたがたは祈っていない」と言ったのです。弟子たちはもちろん祈ったのですが、それは「祈りになっていない祈りだ」とイエスさまは言いました。この個所には祈りの本質が教えられています。

祈りの本質は「みこころでしたら」です。主イエスのゲッセマネの祈りを忘れてはならないのです。あのとき主は「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(マルコ14:32)と祈りました。父なる神に自分の願いを押し付けることはなさらなかったのです。この「みこころでしたら」が祈りの本質なのです。「みこころを行ってください。もし私たちの願いがみこころにかなうのでしたら、それが行われますように。そして私たちもあなたのみわざに参加させてください。もしみこころが他にあるようでしたら、あなたの時にあなたの方法でそれを行ってください。」と祈るのです。

ところが弟子たちは祈りの本質を見失っていました。6章では二人ずつ遣わされ、帰って来て、「さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。」(6:30)とあります。「イエスさま、こんなこともあんなことも」と主がしてくださったことに驚き、自分たちが小さな役割を担うことができたことを喜んでいたのでした。祈りの本質は「みこころでしたら」と自分を差し出すことにあるのです。

【祈りでない祈り】

ところが、このときの弟子たちはそうではありませんでした。「さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。」(14)とあります。汚れた霊を追い出すことができず、律法学者たちに「お前たちには力がない。」と言われ、やっきになっている弟子たちの姿が目に浮かぶようです。そこには6章での初々しい信仰者の姿はありません。「神さま、私がこの汚れた霊を追い出すことができるように、力をお貸しください。」と、そのような祈りになっていたことでしょう。けれども弟子たちはそのとき見ます。主イエスが汚れた霊に「この子から出て行け。」(25)と命じるとたちまち子どもは立ち上がりました。神のみこころは神がなさるのです。祈りによって、神さまを無理やり動かそうとするのは祈りではありません。結局は「自分が願うこと」をかなえるために神さまを使おうとすることなのです。

【おできになるなら】

子どもの父親もまた祈りではない祈りをしました。「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」(22)と言います。「おできになるなら」というのは「できないなら、よそをあたります。」ということ。結局、この父親も自分が子どもを助けようとしていて、そのためにイエスの力を借りようとしているのです。イエスにはおできになります。できないことはないのです。父親は「あなたにはおできになります。みこころならば汚れた霊を追い出してください。」と祈るべきだったのです。神であるイエスが私たちを愛し、放っておくことができなくて、「泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせ」(18)「地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回っ」(20)ているような私たちのところにきてくださったのです。最初のクリスマスに。そのイエスを愛し、信頼し「みこころでしたら」と自分を差し出す私たちはさいわいです。

【信じる者には】

そんな私たちに主の祝福の言葉が響きます。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(23)。ここが「できるなら、と言うのですか。わたしには、どんなことでもできるのです。」なら、とてもわかりやすいでしょう。でも、イエスは私たちと共に働くことを望まれます。ほんとうに小さな一部分なのですが、私たちが「みこころでしたら」と自分を差し出すことを望まれるのです。「この父親も「信じます。不信仰な私をお助けください。」(24)と自分を差し出しました。不信仰な人が「信じます。」というのは不思議です。信じるなら不信仰ではないはずです。けれども、父親に信仰を与えたのは主イエスです。信仰のない父親をあわれに思って主イエスが信仰を与えてくださったのでした。

【年末の感謝を】

今日、年末感謝礼拝。なにを感謝するでしょうか。コロナの中でなんとか守られ、工夫しながら礼拝を続けることができたことはほんとうに感謝でした。けれども、もっとも感謝するべきは、このような中で主イエスが私たちに信仰を与え続けてくださったという奇蹟ではないのでしょうか。この奇蹟は年を越えて、来年もまた続いていきます。