2021年1月3日の説教要旨

2021年1月3日
新年聖餐主日礼拝
説教「仕える者にするお方」
マルコの福音書9章30-37節

【だれが一番偉いか?】

新年おめでとうございます。なにがおめでたいのでしょうか。主イエスがともにおられて、だから私たちが大胆に愛し合うことができる。まずそのことを何より喜びたいと思います。けれども今日の箇所では、弟子たちは主とともにいたのに喜んでいませんでした。だれが一番偉いか論じ合い、主イエスに尋ねられたときも暗くおし黙っていました。ここから私たちの喜びを曇らせるものについて聴くことにしましょう。

弟子たちに「だれが一番偉いか?」は「だれが一番イエスにしっかり仕えているか?」ということだったでしょう。「イエスに仕えたい」という思いはすばらしいのですが、それをほかの人と比べることはおかしなことです。イエスは私たちが力を合わせてご自分と神の国の実現のために仕えることを望んでおられるのですから。

ですから主イエスは「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」(35)とお命じになりました。それは「謙遜にふるまえば、一番偉い者になれる。」というような処世訓とはまったく異なるものです。文字通りに皆に、他の兄弟姉妹に仕える者が、主イエスに仕える群れを立て上げるのです。それが主に仕えるということなのです。

【子どもたちを】

 主イエスは皆に仕えることを目に見えるように教えてくださいました。一人の子どもを「腕に抱いて」(36)「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」(37)と言ったのです。

当時の社会では、子どもは人数には入れてもらえず、一人前の人間としては扱ってもらえませんでした。主はそんな子どもの一人を腕に抱かれました。受け入れたのです。子どもはいつもおとなしいとは限りません。騒がしくて、秩序や規律にきちんと従うときばかりではありません。けれども、主イエスはそんな子どもたちを受け入れるようにと言いました。皆に仕える、兄弟姉妹に仕えるとは、皆を受け入れることです。よいときばかりではなく、問題があったり、付き合いにくかったりするときにも受け入れ、支え、その存在を喜ぶことです。それも弟子たちのようではなく。弟子たちは暗い顔でだれが一番偉いのかと論じ合っていました。けれども主イエスのまわりではいつも子どもたちが喜んでいました。主イエスも喜んでおられました。皆に仕える者は、皆を喜ぶ者です。受け入れにくい相手を受け入れにくいと感じつつも、その人が神さまに受け入れられていることを喜ぶ者なのです。

【十字架の主が】

 受け入れがたい人を喜んで受け入れる。いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。主イエスは無理なことを命じるお方でありません。なにかをお命じになるときにはいつもじゅうぶんな備えがあるのです。

その備えは「人の子(イエス)は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」(31) です。引き渡したのは実は神さま。ローマ書に「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(8:32) とあります。すべてのものを!主イエスが十字架に架かってくださったのは、私たちが受け入れがたい人を喜んで受け入れることができるためでもありました。それは私たちが主イエスの腕に抱かれているからです。同じ腕の中には、私たちが受け入れがたいと思う人もまた抱かれています。「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(37) と主イエスはおっしゃいます。父と子が十字架に架け、架けられるほどに私たちを愛してくださったことを受け入れるならば、仲間といっしょにその主のみ腕に抱かれていることは喜びです。