2021年1月10日の説教要旨

2021年1月10日
成人祝福主日礼拝
説教「恵みのまなざしのお方」
マルコの福音書9章38-41節

【ヨハネのまなざし】

成人祝福礼拝となりました。新成人にかぎらずクリスチャン青年たちがこの日本で活き活きと生きることができるようにと祈りました。この朝はそのために必要なみ言葉を、青年たちだけでなく、私たち全員に語られているものとして聴きます。

十字架へ向かって旅する主イエス一行。ただここでは、どういうわけかヨハネたちがイエスとちがう行動をとったときのことが記されています。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」(38)とヨハネは報告します。イエスの名によって悪霊を追い出している人に会ったヨハネは、その人に「自分たちのように何もかも捨てて主イエスについて行きなさい。」と言ったのでしょう。けれどもその人はついて来ません。そこでヨハネは怒って「もうイエスの名を用いてはならない。」と命じたのでした。ヨハネのまなざしは怒りとさばきのまなざしでした。

このことをヨハネはイエスさまに報告したわけですが、おそらく自分はほめていただけるのではないか、と思っていたのでしょう。十誡にも「あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。」(出エジプト20:7)とあります。主の名を呪文のように用いて自分の願いをかなえようとすることへの誡めです。ヨハネは主イエスとの人格的な結びつきを迫りました、その意味では間違っていません。間違っていたのはまなざしでした。怒りとさばきのまなざしでした。そうしてヨハネはこの人を主イエスから切り離そうとしてしまいました。私たちもそんなまなざしになってしまうことがあります。

【主イエスのまなざし】

 けれども主イエスのまなざしはちがいました。ご自分について来なかったこの人を、弟子への途上にある人とみなしてくださいました。そして「わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」(40) と言いました。この人をイエスについて行くことができない者だと切り捨てないで、イエスに反対せず、イエスの名を口にしていることを喜んでくださっているのです。かつての私たちはイエスの名を口にすることさえもなかった者たちでした。反対することさえありました。それでも主イエスは私たちを恵みのまなざしで見ていてくださいました。それは私たちを惜しむまなざし。愛のまなざし。私たちのためにはご自分を与えることさえ惜しまない十字架のまなざしでした。

【私たちのまなざし】

主イエスの十字架のまなざしで見つめられ、その腕に抱かれている私たちのまなざしは日々変えられています。すでに変えられつつあります。私たちの仲間で、不完全に思える人びとを見るまなざし、不完全な自分を見るまなざしが。いっしょう懸命伝道してもとっつくことも難しい人びとへのまなざしが。恵みの、愛のまなざしに変えられつつあるのです。

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。」(41) は大きな励ましと慰めの言葉です。私たちは家族に伝道がすすまないことを痛みます。けれども、主イエスは家族が、私たちがキリスト者であることを受け入れ、協力して礼拝に送り出し、ときには教会への送迎をしてくれることを恵みの、愛の、十字架のまなざしで見てくださっています。彼らは敵じゃない。味方だと。そしてかならず報いる、と。いちばんの報いは彼らもまた主イエスのいのちに与ることです。

この年、そんなまなざしで遣わされていきましょう。主イエスの恵みの、愛の、十字架のまなざしの中で。