2021年1月24日の説教要旨

2021年1月24日 第四主日礼拝 説教「結び合わせるお方」 マルコの福音書10章1-12節

「イエスは立ち上がり、そこ(カペナウム)からユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。」⑴とあります。最終的な目的地はエルサレム。十字架を目指して、主イエスの最後の旅が始まります。私たちを愛し抜くかたい決意とともに。私たちも主の旅に同行しましょう。

【ヨルダンの川向こう】

「ヨルダンの川向こう」は地図で、ペレヤとある地方。ここで「パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。」⑵のです。これはたいへん危険な質問でした。というのは、ペレヤはヘロデ・アンテパスの領地。マルコが6章に記しているように、このヘロデは自分の兄弟ピリポの妻であったヘロディアをピリポと別れさせて結婚しました。そしてそのことを厳しくとがめたバプテスマのヨハネの首を切ってしまったのです。ですからイエスが「離縁は律法に反する。」と答えるなら身に危険がおよぶこともあり得ます。けれどもイエスが「離縁しても差し支えない。」と言うなら、命惜しさに律法を曲げたとして、神から遣わされた方ではないと非難されるでしょう。そういうワナのような質問でした。

【律法のこころ、神さまのこころ】

主イエスは「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」(3)と訊ねました。「律法にはなんと書いてあるのか?」と問うたのです。パリサイ人たちの答は「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」(4)と実に浅いもの。申命記の「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、」(24:1)の表面的な解釈でした。

主イエスはここであえてワナに踏み込みます。危険を冒して、律法のこころ、神様のこころを語ります。語られた「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」(7-8)は、創世記2:24から。ひとりの男性とひとりの女性が「わたしとあなた」という一対一の関係で向き合い、たがいに支え合い、赦し合い、補い合いながら神との関係・人との関係に成長していくこと。これが神さまのこころ。人はさまざまな痛みを抱えています。問題のない結婚生活はありません。結婚生活という人間関係の中でそれが癒されていくことこそが神さまのこころなのです。だから「こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」(9)のです。

結婚を選ばない人も同じです。その人びとにも神さまが結び合わせた人間関係があります。その中でたがいに向き合い、神との関係・人との関係に成長していくのが神さまのこころです。

【癒しの十字架】

けれどもこのことは離婚を経験した人びとを裁く言葉ではありません。私たちの抱えている痛みのゆえに、欠けや傷のゆえに離婚という選択を強いられる場合も確かにあります。それは私たちにとっても、神さまにとっても、悲痛な嘆きです。しかし神さまは「生きよ。」とおっしゃいます。「その痛みをわたしが担う。そこに罪や咎めがあったとしても、それをわたしが担う。十字架に架かり、そこからあなたを解放する。だからあなたは生きよ。それがわたしのこころだ。」と。そして、復活のいのちを注いでくださるのです。

米国の大統領選挙については詳しいことは知りません。ただ、就任演説でアマンダさんが朗読した詩は感動的でした。ミカ書のみ言葉が心に響いてきました。「彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない…。」(4:4)22歳の黒人女性は「傷ついてはいても、望み続けている 」と続けました。十字架に架かり、よみがえられた主イエスのまなざしの中で、私たちの傷や恐れ、痛みが癒されていくように。そのようにつちかわれた健やかな愛と喜びが周囲の人びとにも、世界にも及んでいくことができるように。