2021年1月31日の説教要旨

2021年1月31日
第五主日礼拝
説教「迎え入れるお方」
マルコの福音書10章13-16節

十字架を目指すエルサレムへ主イエスの旅は続きます。弟子たちもなにかを感じて緊張してきたようです。そんな中で今日のできごとは起こりました。

【叱る弟子たち】

「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。」(13) は、無理もないことであったかもしれません。十字架の意味はわからぬうちにもただならぬエルサレム行き。それなのに親たちが子どもを祝福するように求めます。自分の子どものことしか考えていないのです。そして主イエスに触れていただいたら、自分たちの生活に帰っていきます。そこには主イエスとの人格的な関係を結ぼうという思いは見当たりません。まるでご利益を求める偶像礼拝のようです。ですから弟子たちは親たちを叱りました。主イエスというお方を知り、主イエスというお方とともに歩くように、と。この点では、なにも間違ったことはないように思われます。

けれども「イエスはそれを見て、憤って」(14)とあります。それは親たちの願いをすばらしいものとされたからではありません。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。」(14) と憤ったのです。弟子たちの問題は、子どもたちを主イエスから遠ざけてしまうことにあったのでした。

【抱きしめる主イエス】

 「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(16) のでした。親たちの願いは、子どもたちに触っていただくことだけでした。けれども主イエスはそれ以上のことをしました。抱きしめたのです。子どもたちは主イエスのぬくもりを感じたことでしょう。後には自分を抱きしめたのが人となられた神であったことを知る者もいたかもしれません。子どもたちと主イエスの人格的な交わりはこのとき始まったのでした。

【子どものように】

 このとき主イエスが言われた「神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」(14-15) はあまりにも誤解されているようです。私たちはすぐに「子どもは純真で素直だ。でも私は素直じゃないから信仰が成長しない。」などと思ってしまいます。

 第一に「子どものように」とは、純真や素直とは関係ありません。彼らの中にぐずっていやがった子どもがいたとしてもよいのです。「子どものように」のポイントは「人々が子どもたちを連れて来た。」(13) にあります。彼らはただ連れて来られただけ。自分が純真だから受け入れられるなどと思っていません。ましてや良いことをしたから、とか、立派な信仰の持ち主だから、受け入れられるなどとは微塵も。私たちそういう意味では私たちもただ受け入れられ、抱きしめられ、私たちの全身を、全生涯を御手のうちで祝福されているのです。子どものように。

 第二に、私たちはすでに神の国に入っています。神の支配の中で、神を喜んでいるのです。ですから「決してそこに入ることはできません。」(15)は脅かしではありません。「思い出せ。あなたがたは神の国に入っている。おめでとう。わたしがあなたがたを連れて来て、受け入れたからだ。あなたがたがしたことは、ただ、受け入れられたことを受け入れただけだ。毎日そのように生きなさい。」と祝福してくださっているのです。

【親たちも】

 こう言ったからといって、では子ども祝福式はよくないのですか、と考える必要はありません。子どもの祝福だけを願う親たちも主イエスの招きのもとにあります。主イエスは親たちをも、抱きしめ、その全身を、全生涯を御手のうちで祝福することを望んでおられます。親たちは、受け入れられていることを受け入れる子どもたちの姿を見て、その後に続けばよいのです。