2021年2月7日の説教要旨

2021年2月7日
第一主日聖餐礼拝
説教「補ってくださるお方」
マルコの福音書10章17-22節

「イエスが道に出て行かれると」(17)の「道」は、十字架が待つエルサレムへの道。この道を歩みながら、主イエスは人びとを、そして、私たちを招き続けます。そんな中で今日のできごとは起こりました。

【ある人の悩み】

「一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。」(17)とあります。この姿勢には主イエスへの思いが現れています。批判するためではなく真剣に「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」(17)と訊ねたのです。

主イエスは、「戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」(19)と答えます。それにたいしてこの人は、「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」(20)と言いました。イエスの答は十戒の後半部分。律法の中心です。彼は、律法を懸命に人一倍守ってきた人でした。それでもこの人は、永遠のいのちを得たとは思えませんでした。だから、「(それ以上に)何をしたらよいでしょうか。」と訊ねたのでした。ここには問題があります。私たちは、救いがただ神さまの恵みによることを知っています。律法を守ったら永遠のいのちを生きることができるわけはありません。ましてや、神さまはそれ以上の何かを要求されるお方ではありません。それなのに、この人は、救いが律法以上の良い行いによって得られると考えていたのでした。そして「良い先生」と呼びかけました。主イエスを良い行いを教えてくれる良い先生だと思ったのです。

【良い方、主イエス】

主イエスがこの人に気づかせようとされたのは、まさにそこでした。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」(18) は、エホバの証人が主イエスは神でないことの証拠とするところ。しかし、主イエスは「わたしを『良い行い』を教ええる良い教師と考えるなら、それはちがう。わたしはそれ以上のもの。あなたのために自分を十字架に与える人となった神だ。あなたに永遠のいのちを与える神だ。あなたはわたしがそういう神であることを知りなさい。」と言ったのです。この人は主イエスがどれほど「良い方」であるかを知りませんでした。彼の考える「良い」をはるかに超えた「良い方」であることを。

【主イエスのいつくしみ】

でも、この人は主イエスの恵みが自分を救うことに気がつきません。「イエスは彼を見つめ、いつくしんで」(21) いたことにも気づいていないようです。そして、「ほかに何と何をすればよいのでしょうか。」と気をもんでいるのです。そして、自分の良い行いを秤にかけて、足りているかどうかと考えているのです。見つめているのは自分の行い、自分の資格だったのです。主イエスはそんな彼になお、語りかけます。

「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(22) は厳しい顔で発せられた命令ではありません。「いつくしんで」は「愛して」という言葉。主イエスは彼を愛して、愛のまなざしで見つめながら招かれたのです。「あなたは自分の良い行いが足りているかどうか、そこから離れることができないでいる。そこから自由になりなさい。わたしに従って来なさい。自分の良い行いではなくわたしの背中だけを見つめて。何を与えて、何を残しているという計算をし続ける人生から、そういう計算をやめてしまった生き方に入れてあげよう。それが永遠のいのちの生き方。いまここで、困難の中でも、世界の破れのためにとりなす生き方、世界の破れをつくろう生き方。自分の時と富をもってわたしと共に働く生き方。天に宝を積む生き方なのだ。」と。

私たちも自分の良い行いが、永遠のいのちを受け継ぐのに足りているだろうか、と考え始めるならば、失望するほかはありません。「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」(22) この人のように。けれども、その後ろ姿に注がれていた主のいつくしみの、愛の、まなざしは私たちにも注がれています。目を上げてください。そうすれば、永遠のいのちを新しくしていただくことができます。恋人たちがたがいに相手に喜びを与えようとするように、主イエスと兄弟姉妹と愛し合うことができます。いえ、すでにそうしています。

【献金のこと】

これまで献金についてほとんどお語りしたことがありません。でも、この21節のところはやはり気になるところです。「では、いくら献金したらいいのだろう。」と。最近では、明野キリスト教会に新たに加わられた方には月定献金の袋とともに、「教会と献金」という記事を差し上げています。以前、雑誌に載っていたもので、役員会でよい記事だと感心したものです。そこでは、お金をはじめとするすべては神さまのもので、私たちは神さまから、管理する責任を与えられていること。その大半は自分の必要のために使っていいのだけれども、そのなかから十分の一を献げるように勧められていること。それは義務や救いの条件ではなく、私たちが永遠のいのちを生きるときに与えられる自由が生み出すものです。だから「十分の一さえささげていれば安心だ」「残りはどう使っても自分の勝手だ」「十分の一をきちんとささげていることを、牧師や教会の人にぜひ知って もらいたい」「十分のーをささげているのだから、私には 教会の中で発言権があるはずだ」「十分のーをささげていないクリスチャンは尊敬に値しない」などと言った考え方や態度は神さまを大いに悲しませるのです。

悲しみながら立ち去っていったこの人を主イエスは大いに悲しまれ、惜しまれました。「何をしたら」と問い、「全部は献げられません。それは私のものだから。」と悩むこの人は、永遠のいのちの自由を少しかじっては、また手放しているのです。もちろん主イエスは、この人をずっと招き続けました。私たちも主イエスの招きと守りのうちにあります。この自由のうちにとどまりましょう。