2021年2月14日の説教要旨

2021年2月14日
第二主日礼拝
説教「何でもできるお方」
マルコの福音書10章23-31節

【去っていた人】

先週の箇所で「多くの財産を持っていた」(11)人は、悲しみながら立ち去りました。彼は律法に書いてあることは完全に守りました。けれども律法の心は守りませんでした。律法の心とは「全存在をもって神さまを愛すること」と「自分自身のようにまわりの人を愛すること」、つまり愛です。この人は恋人たちが我を忘れて与え合うように愛することを知らなかった。ぎりぎりセーフで永遠のいのちを得ようとしたのでした。主イエスが私たちに求めるのは愛です。私有財産を禁じているなどということでは毛頭ないのです。

【とどまった弟子たち】

主イエスもまた悲しんで、「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」(23) と言いました。この人を愛して惜しんでいるからです。「弟子たちはイエスのことばに驚いた。」(24) とあります。ここは不思議なところ。弟子たちは「ほんとうにお金持ちはたいへんですね。私たちはもともと貧しいのでそれを捨てることができてよかったです。」と答えてもよさそうなものです。でも彼らは驚きました。

それは弟子たちが主イエスをかなりわかってきたからでした。わかりの遅い弟子たちなのですが、それでも主イエスのそばにいるうちに少しずつわかってきたようです。弟子たちは、主イエスがただ金持ちのことだけを言っているのではないことに気がつきました。だから神の国に入るのが難しいのは金持ちだけではないこと、自分たちも含めて、すべての人が神の国に入るのは難しい、と受け取りました。それで驚いたのです。

主イエスはさらに重ねて言います。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(24-25)。弟子たちはますます驚きます。そしてほとんど絶望にとらわれて「それでは、だれが救われることができるでしょう。」(26)と互いに言いました。「私たちも神の国に入ることは無理だ。」と嘆き合ったのでした。

【主イエスのまなざし】

「 イエスは彼らをじっと見て」(27) いました。いつもどおり愛のまなざしです。そして「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」(27) と言ったのです。「そうだ。あなたがたにはできない。だれも自分の良い行いで、決心で、努力で神の国に入ることはできない。けれども神にはできる。わたしにはできる。この道の先に待っている十字架と復活によってあなたがたを神の国に入れてあげよう。いや、実はあなたがたはもう神の国に入っているのだ。」と。何でもできる神は、人となってその何でもできる力を、ご自分を十字架で与えることに使ってしまわれたのでした。

このときペテロの喜びはあふれました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」(28)は、受け取り方によっては、自分たちの行いを誇って、それで神の国の入国権を買い取ろうとしているようにも聞こえます。けれども、ペテロは恋人が愛を語るように「イエスさま。私たちはあなたのためには何も惜しくないです。ずっといっしょにいます。」と告白したのです。もちろん、この告白は十字架の前夜こなみじんに砕け散ります。それでもこのとき主イエスは、この愛を正面から受け止めてくださいました。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。」(29-30)と言いました。ペテロたちの愛を喜んでくださったのです。

【百倍受ける】

実際には弟子たちが大金持ちになったり、ものすごい数の大家族になったということはなかったように思えます。けれどもほんとうにそうでしょうか。たとえば、パウロはどれほどの費用を旅に費やすことができたでしょうか。主イエスに従う神の家族はどれほどの数に増えたでしょうか。私たちも、家族、持ち物そして自分の人生を主にゆだねるときに、想像もしなかった豊かさを与えられます。すべてを捨てる、つまり、ゆだねることは世捨て人になることではありません。世界とのかかわりを小さく狭めてしまうことではなく、逆に世界と大きく広くかかわることです。そして主イエスにある喜びをほかの人びとにも開いていくことなのです。

【先の者が後に後の者が先に】

「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」(31) も、神の国の序列のことではありません。私たちはたがいに優劣を競い、優越感と劣等感のあいだを忙しく行き来するような生き方から解放されています。そしてなおなお、解放されていきます。主イエスにある新しい生き方、神の国の生き方が始まっているのです。それは何でもできるお方によって、さまざまな歪みから自由にされ、たがいを喜び合い、生かし合い、補い合い、愛し合う生き方です。