2021年2月21日の説教要旨

2021年2月21日
受難節第一主日礼拝
説教「仕えるために来られたお方」
マルコの福音書10章32-45節

【先に立つ主イエス】

レント(受難節)に入りました。主の十字架を思うときです。今日の箇所で、十字架に向かう主イエスは「弟子たちの先に立って行かれた」(32)とあります。そのお姿に「弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた」(32)のでした。主イエスのただならぬ様子の理由はすぐに明らかになります。 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。」(33)は、異邦のローマ人の死刑である十字架を示します。これで三度目になる受難予告ですが、今回は十字架が初めて明らかにされました。また「異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。」(34)もこれまでにない具体的な言葉でした。十字架に自分の意志で敢然と向かわれる主イエスのお姿が、驚きと恐れを起こさせたのでした。

【ヤコブとヨハネ】

この緊張ただよう中でヤコブとヨハネがイエスのところに来て言います。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」(35)と。彼らは決して主イエスの十字架の予告を軽く扱ったのではなかったのだと思います。主イエスの死と復活を真剣に受けとめたうえで、自分たちもいのちがけで実現したい願いを申し上げた。そのためならどんなことでも耐える覚悟を決めて願ったのでした。それは、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(37)でした。彼らは主イエスが復活するとき、世界の王になると考えていました。そのとき自分たち兄弟がナンバー2とナンバー3となって世界を支配したいと願ったのでした。ガリラヤの素朴な漁師であった彼らがなんと大それた、と思うかもしれません。けれどもアダムとエバを見ればわかります。人は神から心がそれるときに、王となりたいと願うのです。自分が世界を支配したいと願うのです。そうしてだれにも脅かされることがない立場を手に入れようとします。彼らはローマに脅かされていただけではありませんでした。ガリラヤ人はエルサレムのユダヤ人からもほとんど異教徒のように扱われていました。そんな中で「自分たちが主イエスの右腕、左腕になってすばらしい世界を作ろう。ガリラヤ人だからと言って軽んじられない世界を。」と思ったのでしょうか。そして「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」(38)という主イエスの問いにも「できます。」(39)と答えます。杯が十字架で、バプテスマが死であることをどれほど理解していたかはわかりません。けれども、彼らはどんな犠牲でも払う覚悟をしていました。そして、それが主イエスにとっても世界にとっても最善だと信じていたのでした。

【分かっていなかった弟子たち】

そんなヤコブとヨハネに主イエスは「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。」(38)とおっしゃいました。主イエスが十字架と復活によって受ける栄光とは、彼らが考えていた栄光とはまったく異なるものだったからです。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。」(42)とあります。ヤコブとヨハネの望んだ栄光は異邦人の考える栄光でした。彼らはイスラエルの王が神であって、その神がどんなお方であるかを忘れていました。神はイスラエルの叫びに身をかがめるようにして聴き取り、はらわたが痛むほどにあわれみ、そのままほっておくことができない神。その神がいま、人となってご自分を与えるために目の前に立っていることが分からないでのです。「ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた」(41)とありますから、ほかの弟子たちも同じでした。主イエスが受ける栄光が、どのようなものであるか分かっていなかったのです。

【主イエスの栄光】

「しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」(43-44)。これが主イエスの受ける栄光でした。たがいの順序を競い合い、「自分こそがすばらしい支配をする。」と押しのけ合うのではなく、たがいに仕え合う生き方をする私たちを通して主イエスの栄光はあらわれます。先週も語ったとおり、仕えることは神の国の序列を入れ替えることではありません。序列ではなく、たがいに補い合い、支え合い、仕え合う教会こそが主イエスの栄光なのです。教会を通して、世界の破れはつくろわれていきます。神と人との、人と人との、人と世界との破れが。

そんな教会を生み出したのは主イエスの血、すなわちいのちです。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(45)と注がれた主イエスのいのちによって、私たちは解き放たれて、教会に加わりました。

木曜日のオンライン祈祷会で「神さまを愛する」とはどういうことか、と語り合いました。それぞれに胸が燃えるような思いが語られましたが、おひとりが「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4)の主イエスの言葉に従うことが神さまを愛することだと言いました。ただ主にとどまるときに、日々注がれる主イエスのいのちによって、私たちはたがいに仕えること、すなわち自分を与え合うことに成長していきます。「私たちが」ではありません。「主イエスが」ご自分の愛の支配を実現されているのです。私たちを通して。