2021年2月28日の説教要旨

2021年2月28日
受難節第二主日礼拝
説教「叫ばせてくださるお方」
マルコの福音書10章46-52節

【叫ぶバルティマイ】

レント(受難節)第二主日の礼拝を迎えました。今日はエリコでのできごと。エリコはエルサレムへ上って行くための最後の町。いよいよ十字架が近づいているのです。そんな日々にも主イエスの愛は鮮やかです。

「さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。」(46)。当時の目の見えない人には、手厚い福祉制度もありません。人通りの多い道ばたに一日じゅう座って、自分の姿を人びとにさらし、憐れみを乞うしかなかったのです。それは気楽な暮らしとはほど遠い不安に満ちた、喜びと希望のないみじめな毎日であったことでしょう。

この日、目の見えないバルティマイの敏感な耳に人々が主イエスの名を口にするのが聞こえてきました。イエスがすぐ近くにおられるようなのです。バルティマイは「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」(47)と叫び始めました。「 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、『ダビデの子よ、私をあわれんでください』と、ますます叫んだ。」(48)のでした。

【ダビデの子】

バルティマイは主イエスのことを「ダビデの子」と呼びました。ダビデはイスラエルを代表する王。ユダヤ人たちはダビデの子孫からイスラエルのまことの王が現れ、神さまの救いがその王によって実現すると信じていました。ですからバルティマイは、主イエスを単なる超能力的な癒しの能力を持った人間と思ったのではありません。主イエスを神からの救い主だと思いました。その救い主が目を癒すというだけではなく、バルティマイをみじめな毎日から解き放ってくれることを望みました。不安からの自由、喜びと希望への自由を願ったのでした。 

【招く主イエス】

そのとき、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」(49)と言われました。バルティマイを招いたのです。目が見えないのだから、そばに行ってあげればいいのに、と思うかもしれません。けれども、救いは主イエスとの人格的な関係に入ること、主イエスとの愛の関係に入ることです。主イエスはあえてバルティマイを招かれました。バルティマイが手探りででも、ご自分に来るようにと招き、そしてバルティマイがくることができるように力を与えたのでした。私たちにもそうしてくださったように。そもそもバルティマイが叫んだのも主イエスが叫ばせてくださったのです。

まわりの人びともバルティマイを励ましました。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」(49)の「心配しないでよい」は「安心せよ、喜べ、元気になれ、勇気を出せ」という広い意味の言葉です。主イエスのまわりの人びとは「さあ、もう心配いらない。安心して、喜んで、元気をだして、勇気をもって、主イエスのもとへ行け。あなたを招いておられるのだから。」と励ましたのです。ここに教会の姿があります。たがいに励まし合いながら主イエスのもとに近づいて行く姿です。それはただ初めて主イエスを信じるときのことだけではありません。

【上着を脱ぎ捨て】

主イエスと人びとの招きの声を聞いたとき、バルティマイの喜びはあふれました。躍り上がったのです。上着はバルティマイの持ち物のすべてであったことでしょう。それを脱ぎ捨てたのです。これまでの生き方、これまでの心、そのすべてが今新しくされるのです。彼は、主イエスの問いに答えて「先生、目が見えるようにしてください。」(51)と願いました。不安からの自由、喜びと希望への自由へと踏み出したのでした。主イエスもそんなバルティマイを喜んで「あなたの信仰があなたを救いました。」と言いました。もちろん主語は主イエスです。バルティマイを救ったのは主イエスで、バルティマイではありません。けれども、主イエスはバルティマイとの間の人格的な始まりを喜ばれました。そして「そうだ。それでいい。あなたはわたしのうちにとどまりなさい。」と励ましてくださったのでした。

【ついて行ったバルティマイ】

主イエスは目が見えるようになったバルティマイに「さあ、行きなさい。」(52)と言いました。ところがバルティマイは行きません。「道を進むイエスについて行った。」(52)のです。バルティマイの心の底からの願いがなんであったのか、それが明らかにされました。バルティマイの願いは、ただ目が見えるようになることではありませんでした。自分でも気づいていなかった彼のほんとうの願いは、主イエスを見て、主イエスを愛し、主イエスとともに生きることでした。だからバルティマイは主イエスのもとを去りませんでした。見えるようになった目で、主イエスを見ながらついて行ったのです。

もちろん主イエスが捕らえられたとき、バルティマイも主イエスを捨てて逃げたことでしょう。そして、そのことを悔いて悲しんだことでしょう。けれども、バルティマイは主イエスの復活によってふたたび喜びを回復されたにちがいありません。証拠があります。「ティマイの子バルティマイ」(46)とその名が記されていることです。弟子たちにとったバルティマイはエリコで会った行きずりの見知らぬ人ではありませんでした。主イエスの教会に連なる仲間として、その名をここに記したのでした。バルティマイもまた、私たちのようにされたのです。私たちのためになにも惜しまなかった主イエスの十字架を心に刻み、主イエスの復活を喜ぶ人とされたのでした。