2021年3月7日の説教要旨

2021年3月7日
受難節第三主日礼拝
説教「平和を与えるお方」
マルコの福音書11章1-11節

【詳細な序文つきの受難物語】

今日の箇所のできごとが起こったのは受難週の始まる日曜日のことでした。この週の金曜日に主イエスは十字架にかけられます。マルコの福音書は全部で16章あるのですが、11章から16章の6章は受難週のできごとを扱っています。マルコの福音書がいかに受難週に集中している福音書であるかがよくわかります。ある人はマルコの福音書を「詳細な序文つきの受難物語」と呼んでいるほどです。私たちもレント(受難節)第三主日の礼拝を迎えました。いよいよ今日から序文を終えて、マルコの中心部分に進んでいきましょう。

【ご自身が望んで】

ゼカリヤ書を開きましょう。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」(9:9-10)とあります。主イエスはこの預言がご自分を指していることをよくご存じでした。「あなた(エルサレム)の王」とあります。エルサレムはダビデ王が定めたイスラエルの都。ここに王が入場するとき、その支配が回復するのです。だから人びとは「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」(マルコ11:9-10)と叫びました。バビロン、ペルシャ、ローマと数百年間、ずっと諸外国の支配下にあったイスラエルを解放してくださるお方として歓迎したのでした。主イエスは、ご自身が望んで、そのエルサレムに入城しました。王として支配することをご自身が望んだのです。

【子ろばに乗って】

主イエスはゼカリヤ書の預言どおり子ろばに乗って入城されました。普通なら王は立派な軍馬に乗って現れます。そして力を誇示し、恐怖で人びとを支配するのです。けれどもさきほどのゼカリヤ書の預言は逆です。「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。」とあります。主イエスの支配は、恐怖による支配、力による支配ではありません。軍馬を絶つ支配。すなわち、力によらない、恐怖によらない支配なのです。それは支配というよりは解放と呼んだほうがいいでしょう。人びとの心を解き放つ。恐怖によって押さえつけなければ秩序を守らず、自分の思いをとげる生き方からの解放。自ら愛を与える生き方への解放。人を愛せず、しゃがみこんでいる絶望から、喜び踊る毎日への解放。主イエスはそのために来られました。それは人びとの望みをはるかに超えた素晴らしすぎることだったので、受け入れられず十字架を招きました。けれども、その十字架こそが神の最強の武器でした。悪の力を打ち砕き、その支配から私たちを解き放ち、続く主イエスの復活のいのちを私たちに注いだのです。この私たちにも。だから主イエスはイスラエルの王であっただけではありません。「彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」とあるように、世界の王なのです。世界の人びとの心を根本から創り変え、たがいに愛し合う民とする世界の平和の王なのです。そのためにご自分のいのちを与えてくださったのでした。

【立っていないで】

けれども沿道で、主イエスを讃えて叫んだ人びとにはこのことはわかりませんでした。わかったのは、彼らとは異なる人びと。「そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。」(9)と記されている人びと、主イエスとともに旅する人びとです。その中には先週見た、その日の朝エリコの街はずれで主イエスに会ったバルティマイもいたことでしょう。彼らとて、このとき主イエスの十字架と復活が与える解放をはっきりと理解していたわけではありません。けれども主イエスと共に生きる人は、いのちと喜びが自分に実現していくのを知ることができます。じっくりと深いところから変えられていくのです。私たちもまた主イエスと共に旅する人びとです。仲間とともに旅する中で、ますます変えられています。