2021年3月28日の説教要旨

2021年3月28日
棕櫚の主日礼拝
説教「権威あるお方」
マルコの福音書11章27-33節

【祭司長たちの怒り】

主イエスの宮清めについて2週間にわたって見てきました。今日はその余波とでもいうべきところ。受難週の月曜日が宮清めで、翌日の火曜日、「祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て」(27)、主イエスを問いつめました。宮清めをとがめたのです。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」(28)と。彼らの怒りは、自分たちが公認していた異邦人の庭での取引が主イエスによって断罪されたからでもあったでしょう。また自分たちの権威は神によって裏付けられているという思いもあったでしょう。けれども、彼らは致命的な考えちがいをしていました。それは神さまが世界のすべての人びとを祝福したいと願っておられ、ユダヤ人はその通路として召されたということ。そして彼らの怒りは主イエスを十字架へと追いやることになります。こうしてなんとも痛ましいことに、ユダヤ人になられた神、十字架にかけられた神であるイエスによって、世界のすべての人びとの祝福がなしとげられたのです。

【だれの権威によって】

「だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」(28)は、単なる質問ではありません。主イエスには宮を清め、自分たちの権威をないがしろにする権威はないと非難しているのです。自分たちこそが神からの権威を持っているのだと主張したのです。

主イエスはこの非難に対して、質問を投げかけました。それは祭司長たちの心を明らかにする問でした。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」(30)と。 ヨハネとあるのはバプテスマのヨハネのこと。主イエスをメシアだと語り、ヘロデ王に殺された神に遣わされた預言者です。けれども祭司長たちはヨハネに神からの権威を認めませんでした。だからヘロデをいさめることはしなかったのです。ですからもし祭司長たちが、真摯に神に仕えるつもりならば、はっきりと「イエスよ、バプテスマのヨハネは人から出たのだ。彼には神からの権威はない。お前も同じだ。」と答えるはずでした。

ところが実際にはかれらは不誠実です。「すると、彼らは論じ合った。『もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、人から出たと言えば──。』彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。」(31-32)とあります。ほんとうはバプテスマのヨハネは神から遣わされたものではない、と思いながら、群衆を恐れて「分かりません」(33)と答えたのでした。自らを神からの権威のある者とする祭司長たち。その彼らは神からの使命に不忠実でした。自分の身の安全のために、神からの使命と信じていたことをないがしろにしたのでした。

【神からの権威】

 しかし主イエスこそは神さまからの権威あるお方でした。宮清めは神からの権威によって行われました。異邦人たちにも祈りを与えるために。そして主イエスは神からの使命に忠実にご自分の命を手放されました。十字架の死にいたるまで、神からの使命に忠実でした。主イエスをみるとき、神からの権威は愛するための権威であり、神からの使命は愛することであることが分かります。

「分からない」と心を閉じた祭司長たちは、神からの権威を受けることができませんでした。神からの使命に背を向けました。私たちもかつては、神からの権威にも、神からの使命にも気づかないお互いでした。けれどもそんな私たちのために主イエスは十字架に架かり、復活のいのちを注いでくださいました。だから私たちは、愛することができます。祭司長たちのようにではなく、主イエスに向かって心を開き続けることができます。開かれた心に、今日も主イエスは愛を注ぎ続け、私たちが愛をもって世界の破れをつくろう者としてくださっているのです。

辞任した議員のニュースを聞きました。悩んでいた議員を最後に導いたのは神父からの電話だったそうです。「最終的には神の前で誠実であることが第一。自分の内面に誠実に向き合って」と。神父を通して、ほんとうに権威ある主イエスが語りかけてくださいました。そして議員を解き放ち、このことによってもまたひとつ世界の破れがつくろわれました。