2021年4月4日の説教要旨

2021年4月4日
イースター主日聖餐礼拝
説教「十字架上のお方」
マルコの福音書12章1-12節

イースターおめでとうございます。先週の木曜日は洗足木曜日。最後の晩餐です。いつもなら私がパンを焼いて、聖餐をするところですが、今年はコロナのためにかないませんでした。それぞれに主の十字架をしのんですごしたことでした。

【ぶどう園のたとえ】

さきほど読んでいただいた聖書の箇所は、受難週の火曜日のできごと。十字架を前に主イエスが語られた最後のたとえ。ここから主イエスが伝えたいと願われたおこころを聴きましょう。

このぶどう園のたとえは、神さまの愛のたとえです。ぶどう園の持ち主(神さま)は、農夫たち(イスラエル)を愛して、「ぶどう園を造っ」て垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て」(1)、つまりぶどう園(この世界)のすべてを整えて、農夫たちにゆだねました。

ところが「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、(ぶどう園の持ち主=神さまが)農夫たち(イスラエル)のところにしもべ(預言者たち)を遣わした」(2) のに、「彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返し」(3) ました。これが繰り返えされます。農夫たち(イスラエル)は持ち主(神さま)を愛そうとしなかったのです。何度も何度も預言者たちがつかわされて、「神さまに立ち帰って、神さまを愛し、神さまと共に世界の回復のために働こう」と招いたにもかかわらず。

神さまは私たちから何かを取り立てようとするお方ではありません。なにも必要とされていません。けれども神さまが私たちに望まれることがあります。愛です。私たちの、そしてイスラエルの愛を得るために、神さまは「最後に、息子を彼らのところに遣わした」(6) のでした。主イエスです。愛することができない私たち。愛そうと思っても、恐れや痛み、受けてしまった歪みによって、愛することができない私たち。私たちはそんな自分を、悲しみ惜しみます。けれどもそんな私たちを、私たち以上に、悲しみ惜しむお方がおられます。十字架に架けられた神、イエス・キリストです。愛することができずにしゃがみこんでしまった私たちを、そのままにしておくことができないで、十字架に架かってくださいました。「彼(イエス)を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた」(8) とあるとおりです。主イエスは神でありながら、いのちを与えてくださったのです。

【要の石】

ところが、ぶどう園のたとえの後にもうひとつのたとえが語られました。私は長い間、この捨て石のたとえがよくわかりませんでした。けれどもこのたとえを、主イエスの十字架と復活の光で見るときに、神さまの愛があざやかに迫ってきます。

「『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」(10-11) とあるのは、詩編118篇からの引用です。イスラエルが捨てた石、つまり十字架に架けられた主イエスが、要の石、つまり世界の破れをつくろう土台となったのでした。「家」とあります。「家」は世界。主イエスが破れをつくろってくださる世界です。けれども世界の回復は、私たち、つまり教会という家から始まります。主イエスは教会の土台となって教会を誕生させました。そして教会を同労者として、共に働いて、世界の破れをつくろってくださるのです。つくろってくださっているのです。

復活の光の中で

イースターおめでとうございます!主イエスはよみがえられました。今日は、仲間とともに聖餐を祝います。復活の主を食し味わうのです。復活の主イエスが、私たちの間に今立っておられるのを見て、その愛を注いでいただき、私たちも注ぎだすのです。かつては主イエスを知らず、知ろうとも思わなかった私たちが、すでに愛が人生の意味であることを知って、愛を人生の目的としているのです。ぶどう園、この世界を造り、愛し、破れをつくろう神さまを喜んでいるのです。そんなたがいを、この復活の朝に祝福し合いましょう。