2021年4月11日の説教要旨

2021年4月11日
第二主日礼拝
説教「問いかけるお方」
マルコの福音書12章13-17節

【パリサイ人とヘロデ党】

イースターを祝った私たち。受難節は終わりイースターからペンテコステまでの50日間を復活節と呼びます。CS教師たちによるイースター動画も復活節の間は公開しておきたいと思います。けれども説教のほうは、まだ十字架の前。受難週の火曜日です。主イエスのぶどう園のたとえに腹を立てた祭司長たちが「さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。」⒀のです。

パリサイ人は律法を厳密に守ることによって神の民イスラエルの誇りを守って生きている人びと。異邦人であるローマ帝国の支配を苦々しく思っていました。一方でヘロデ党は、ローマの支配を受け入れてその中でうまくやろうとする人びと。ほんとうなら絶対に一致するはずがない人びとが主イエスに敵対することで一致したのでした。主イエスは地上での生涯を通して「存在をあげて神さまを愛する」ことと「自分のように隣人を愛する」ことを求めました。神さまがそのような愛を与えるお方だと指し示したのでした。けれども、パリサイ人もヘロデ党も、主イエスを拒否しました。神の民イスラエルなのに、地上に来られた神さまがわからなかったのです。それは神さまがどういうお方かを、彼らが忘れていたからでした。パリサイ人は律法を厳格に守れば、神さまは怒りを鎮めて、ローマを退けイスラエルを回復してくれると考えていました。神さまが世界を愛して、イスラエルを通して世界の破れをつくろってくださるお方であることを忘れたのです。ヘロデ党も、神さまがどういうお方を忘れていました。神さまがイスラエルを解き放つことなどない、と失望していたのです。こうして、両者とも今、目の前におられる神に気づきませんでした。気づかないばかりか敵対したのでした。

【カエサル(皇帝)に税金を納めるべきか】

彼らはどのようにして主イエスを陥れるかを相談してから現れたようです。そもそもパリサイ人は「納めるべきでない」と考えていたはずです。それなのにことさらにそれを訊ねてみせるのです。主イエスが「納めるべきではない」と答えたら、主イエスを反逆者としてローマの総督に訴えるためです。こうして彼らは自分たちの信念を曲げてしまいました。

一方ヘロデ党は「納めるべきだ」と考えていたのに、「納めるべきか?」と訊ねます。主イエスが「納めるべきだ」と答えるなら、ローマからの独立を願う民衆は主イエスから去っていくでしょう。それを狙ったのです。

こうしてパリサイ人もヘロデ党も、主イエス憎さのために自分がほんとうに何を望んでいるのかもわからなくなっています。イスラエルのためにこれがよいことだ、と自分が考えてきたことを投げ捨てているのです。

【神のものは神に】

主イエスの答は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(17)でした。これはパリサイ人とヘロデ党を驚嘆させました。何がカエサルのもので、何が神のものなのか、その判断を彼らに押し返したからです。主イエスはその判断はあなたがた自身がしなさい、と言ったのです。これではだれも主イエスを訴えることはできませんでした。

けれどもこの答えは、私たちにひとつの疑問を起こさせます。私たちは毎日同じような選択を迫られています。たとえば私は営業の仕事をしていたときに、お客さんを神社仏閣に案内するように命じられることがありました。もし、主イエスが明確に「カエサル(教会の外)のもの」と「神のもの(教会の中)」を分けているのであれば、話は簡単です。教会の外では、まるでクリスチャンでないかのように振舞えばよいのです。けれども私はそうではないと思いました。世界はすべて神のものです。すべての場所、すべての時に神を愛するべきなのです。私は苦しみました。あるときは、上司にお願いして他の人に代わってもらい、また他に案内するところがないか、休日に探し歩きました。また、お客さんにも自分がクリスチャンであることを話して、拝まないことを納得してもらったりもしました。どれが正解であったか、それはわかりません。けれども、どんなときにも神さまを愛したいと思ったのです。そんなことをしているうちに、社内でもお客さんの間でも、私がクリスチャンだということは、だんだん広まっていき、あまり困ることはなくなっていきました。今でも、当時の会社の上司や同僚たちが聖書の話を聞きに訪ねて来てくれることがあります。あのとき悩んだことはむだではなかったなと思うのです。この世にあって私たちには悩みがあります。すっきりした答えがないこともしばしばです。けれども「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28・口語訳)とある通り、神さまは私たちと共に働いてくださいます。私たちの苦闘を通して、神を知らない世界の破れをつくろってくださるのです。もちろん最も苦闘したのは主イエスです。その十字架の辱めと苦しみによって世界の破れをつくろい、復活のいのちを注いで私たちを神の子としてくださったのです。

【カエサルのです】

主イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と言いましたが、その前に「これは、だれの肖像と銘ですか。」と訊ね「カエサルのです。」という答えを聞いています。ですからカエサルに税金を納めるかどうか、という問いに、主イエスがまったく中立であるとは言えないでしょう。やはりカエサルに税金を払うことを否定してはいないのです。

では、私たちはどんなときにも国家に従うべきなのでしょうか。どんなに非人道的な政権が誕生したとしても忍耐するべきなのでしょうか。ここでもすっきりと割り切れる答はありません。私たちは「存在をあげて神さまを愛し」「自分のように隣人を愛して」生きます。国家と指導者たちのために祈り、とりなし、可能なかぎりきちんと意見を述べ、選挙そのほかの手段に訴えます。私たちの選ぶ手段が間違っていることもあるでしょう。それでも、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」との主イエスの命令を、よりよく実現するために私たちは苦闘します。そんな私たちを通して、今日も世界の破れはつくろわれ、神の国は前進しているのです。このことをもう知っているたがいを喜びましょう。