2021年5月9日の説教要旨

2021年5月9日
第二主日礼拝
説教「見つめるお方」
マルコの福音書12章38-44節

受難週の火曜日のできごとがさらに続きます。今日の箇所では律法学者たちと一人の貧しいやもめが登場します。この実に対照的な人びとのどちらも主イエスは愛をもって見つめていました。

【律法学者たち】

律法学者は神のみことばである律法を研究し、律法に従う生活をし、人びとにも律法に従う生活を教える人です。しばらく前にも見た通り、律法を貫いているのは二つの愛。存在をあげて神さまに「あなたは私のただひとりのお方」と申し上げ愛する愛と、仲間と愛し合い、赦し合い、励まし合う愛。二つだけれども分けることができません。神との愛が仲間との愛を支え、仲間との愛が神との愛を支える、そんな愛を教えるのが律法学者たち。だから人びとが律法学者を尊敬し、だいじにするのは当然のことと言えます。

ところが律法学者たち自身の二つの愛が崩れることが起こりました。「長い衣」(38)は律法学者であることのしるし。それを着て「広場であいさつされること」を願ってわざと人前に出ていくのです。「会堂で上席に」座るのは職務上自然ですが「宴会で上座に座ること」を自ら要求するのは、彼らが他の人びとに対して、自分が特別であることを見せつけ、人からの評価を得ることが人生の目的になってしまっているのです。そうして仲間と競争し、優位を感じれば安心し、劣っていると感じるとねたみや憎しみに襲われる、そういう生き方になってしまったのでした。

主イエスはそんな律法学者たちを惜しまれました。彼らがふたつの愛を語り、生き、導くことができたなら!と痛みを覚えられたのでした。神さまを愛することを忘れ、仲間を愛することがわからなくなってしまった彼らを残念に思われたのでした。「こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」(40)はそんな無念のお気持ちの表れでした。人からの評価に縛られて、神さまと仲間を心から愛する自由を失った人びとへの。

【一人の貧しいやもめ】

当時のエルサレム神殿では、献金箱にお金を入れると、祭司が「〇〇が〇〇献金しました」と献金した人の名前と金額を叫んだようです。「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。」(41)のは、人びとの称賛を得ようとする律法学者たちを思わせるところです。そんな金持ちへ主イエスのまなざしは、やはり痛みに満ちていました。

そこへ一人の貧しいやもめが一コドラント投げ入れます。これは労働者の一日の賃金の1/64ですから、今でいうなら100円か200円。当時のお金の最小単位ともいわれています。やはりこのときも祭司は「〇〇さんが一コドラント献金しました」と叫んだことでしょう。人の目を気にしていたなら、とても恥ずかしく思ったことでしょう。あるいは、恥ずかしいからもう献金しないで帰ろう、と思ったかもしれません。

けれども、この人の顔は喜びに輝いていたのではないかと思います。彼女は人からの評価に縛られていないのです。心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、自分の神、主を愛していました。「あなただけが私に愛するお方」という彼女と「そうだ。わたしはあなたの神だ」と言う神さまとの間には、人からの評価が入り込む隙間はありません。彼女は人がどう思うかなどといったことから自由なのです。

そんなやもめを主イエスはたいへん喜ばれました。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(43)と。やもめは毎日生活費をぜんぶ献金していたわけではありません。そんなことをしたら死んでしまいます。でも、この一瞬、彼女のこころは喜びに満たされて、ふと神さま愛を献げたくなりました。たとえ今夜、空腹で寝ることになってとしても、愛を献げずにはいられなくなってしまったのです。明野キリスト教会の私たちも、そんな不思議な喜びに生きる人びとです。主イエスが十字架と復活によって、そんな愛と、そんな愛をたがいに励まし合う仲間を与えてくださったのです。