2021年5月16日の説教要旨

2021年5月16日
第三主日礼拝 説教
「励ますお方」
マルコの福音書13章1-13節

【神殿ではなく】

13章は受難週の火曜日のできごとの最後の部分です。「イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。『先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」ここから、主イエスはとてもたいせつなことを語り始められました。私たちも注意深く耳を傾けたいと思います。写真は「嘆きの壁」と呼ばれる当時の神殿の一部。現在の高さは19mですが主イエスの当時はこれよりもずっと高くそびえ立っていたそうです。弟子たちが感心したのも無理はありません。

けれども、主イエスは「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」(2)と答えました。実際にこの後、イスラエルはローマに反逆して滅ぼされ、紀元70年にエルサレム神殿は破壊されました。しかし、主イエスが、ただそのことを予知した、というだけで終わってはなりません。主イエスのお言葉には二つのもっと深い意味が込められていました。

第一は当時のユダヤ人たちに神殿により頼むという傾向がみられたことです。もともと神殿は神さまを礼拝する場所。イスラエルにとって何よりもたいせつな神さまとの関係を、仲間と共に育む場所です。ところがいつのまにか、「この神殿があるから我らはだいじょうぶ。神の守りがあるのだ」というような考えが広まっていたのです。それでは本末転倒。目に見える神殿によって、目に見えない神さまと存在を与え合う生き方から、目をそらされてはなりません。弟子たちもそこを見失う危険にさらされていました。

第二は、神殿の役割は紀元70年を待つまでもなく、この3日後に終了したことです。神殿礼拝の中心は動物犠牲を献げることでしたが、受難日の金曜日、主イエスは十字架で自らを完全な犠牲として献げました。これによってもはや動物犠牲の場は必要ではなくなったのでした。主イエスは十字架を前に、ご自分が罪の赦しと罪の力からの解放を与えることを、痛みと喜びをこめて語ったのでした。

【惑わされるな】

けれども弟子たちは、十字架に思いがいたりません。やはり他の人びとと同じように、神殿により頼み、神殿の崩壊を世界の終わりのように考えているのです。だから「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」(4)と訊ねました。

主イエスはそこで「人に惑わされないように気をつけなさい。」(6)と教えました。

a偽キリストに惑わされるな。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。」(6)

b戦争や戦争のうわさに惑わされるな。「また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。」(7)

c地震や飢饉に惑わされな「あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。」(8)

d迫害に惑わされるな。「人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。」(9)

惑わされてはならないのです。偽キリスト、戦争、地震、飢餓、迫害は主イエスの時代にもありましたし、今もあります。私たちもなにかあると、世界は破局に向かっているのではないか、と恐れを抱きます。大震災や環境破壊、コロナなどが不安をかきたてます。不安をあおる宗教もあります。弟子たちの「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」(4)は、そんな不安から出ています。私たちは、前もって「いつか」を知りたいのです。そうすれば備えることができるからです。移住したり、備蓄したりできるかもしれません。あるいはあと百年だいじょうぶとわかれば、安心して暮らせるかもしれません。けれども、それは神を計算に入れることです。これから起こることをあらかじめ知って、それを自分の計画や予定の中に組み入れて、神さまを支配しようとすることです。小さく守りに入ってしまうことです。神さまが私たちと共に働いて、破れた世界を驚くべきやり方で回復されることに目をつぶることです。

【心配するな】

 では、弟子たちは、そして私たちは、惑わされないでどのように生きるべきなのでしょうか。「まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。」(10)は、主イエスの励ましです。偽キリスト、戦争、地震、飢饉、迫害の中で、主イエスはかえってそれらを用いて、世界の破れをつくろいます。私たちを用いて。

 私たちは、伝道は難しいと思います。どのように語ればよいのかわかりません。主イエスはそんなことはよくご存じです、「人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」(11)とあります。来週はペンテコステ。ペンテコステに教会にくだった聖霊が私たちに語らせるのです。語るというのは、ただ言葉で人を説得することではありません。私たちが置かれた場所で、ていねいに愛すること。その愛とそこに生まれる言葉が世界に回復をもたらすのです。主イエスは今日も「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」(13)と私たちを励まします。最後まで、愛するように、と。聖霊によってそうさせてあげようと。