2021年6月6日の説教要旨

2021年6月6日
第一主日礼拝
説教「安心させるお方」
マルコの福音書13章32-37節

【留守をまもる私たち】

マルコの13章も最後の部分にきました。主イエスは、ここで再臨を待つ私たちを励ましています。「旅に出る人」は主イエスのこと。主イエスは今、留守なのです。もちろん主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束しました。その約束は真実で、主イエスは今も、私たちと共にいてくださいます。けれども、今は主イエスが目に見えません。目に見えない主が聖霊によって共にいるのです。しかし目に見えるお姿としては、主イエスは不在です。さきほども使徒信条を告白しました。「…十字架につけられ…天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて…」とあります。今は主イエスのお姿は隠されていて、信仰によって受けとめるしかありません。しかしやがて主イエスが来られて、だれに目にもそのお姿が明らかになるときがきます。その日まで私たちは主イエスの留守をまもっているのです。

【彼の仕事】

主イエスは「家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ」 (34)と言われました。留守をまもる私たちに、ご自分の不在の間の過ごし方を教えました。「責任」は「権威」とも訳せる言葉。「仕事」は正確には「彼の仕事」という言葉です。つまり主イエスは私たちに、ご自分の仕事を割り当てて、責任を持たせているのです。ですから主イエスは、ご自身の留守中に「しもべとしてのいつもの仕事を怠けずにきちんとしなさい」とおっしゃったのではありません。「わたしの働きを代わって担うように」と命じられたのです。その働きとは、世界の破れをつくろうことです。大きなことではありません。仲間と共に、置かれた場所で、ていねいに愛すること。目には見えない主イエスと共に、聖霊によって愛を注ぐことなのです。

【目を覚まして】

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」(32-33)は、これまで何度も語ったことです。主イエスは、この世の終わりについて、何がいつどのように起こるかを教えているのではありません。終わりの時代の苦しみの中で、主イエスを仰ぎ、主イエスと共に、世界の破れをつくろうことを励ましておられるのです。

そして「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。」(36)もまた、私たちを励ます言葉です。私たちが脅えてびくびくと生きるのではなく、喜びをもって再臨を待望することを励ましているのです。主イエスもよく知っておられたマラキ書にこうあります。「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」(3:13)と。再臨の日は私たちが神さまの宝として抱きしめられる日、喜びの日です。クリスマスを待つアドベントがすでに喜びの日であるように、もうすでに私たちは喜びの日に生きています。苦難の中でも喜んでいるのです。

【みんなでいっしょに】

「ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。」(35)について、この四つの区分は、夜の歩哨の当直交代の区分ではないか、と言われているところ。つまり、ひとりが目を覚ましているのではなく、疲れたり、失望したりする弱いたがいを励まし合うのです。教会の姿です。私たちは自分だけでがんばる必要はありません。仲間がいます。主が与えてくださった仲間がいるのです。

【安心させるお方】

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。」(32)は私たちにどんな気持ちを起こさせるでしょうか。あらかじめ、いつ、どのようにして世の終わりと再臨が起こるか知りたい、と思うなら不安になるかもしれません。けれども主イエスが私たちに与える信仰は、私たちがいろいろなことを知ることによって安心するという信仰ではありません。「父だけが知っておられます。」とあります。私たちにはわからないけれども、神さまが知っておられることに安心する信仰です。いろいろ知って手を打って安心するのは、結局は自分の力で生きていこうとする生き方です。主イエスは私たちに神さまご自身への信仰を与えます。神さまが私たちの安心なのです。