2021年6月13日の説教要旨

2021年6月13日
第二主日礼拝
説教「香油を注がせるお方」
マルコの福音書14章1-9節

【過越の小羊】

「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。」(1)とあります。いよいよ主イエスの十字架の死が二日後に迫った水曜日です。過越の祭りは、エジプトのパロがイスラエルの民を去らせようとしないので、エジプト中の長子が打たれ、小羊の犠牲の血を門に塗ったイスラエルの家だけを神の使いが過ぎ越した神の恵みの記念。種なしパンの祭りは過越の祭りに続く七日間の祭り、パンを発酵させる暇がないほど急いでエジプトから脱出させた神の恵みの記念です。

祭司長たちは「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」(2)と話し合っていました。人びとがエルサレムに集まる期間を避けて、ひそかに主イエスを亡き者にしようとしたのです。ところが結局、主イエスはこの祭りの間に殺されました。それは父なる神が望まれたからでした。父なる神は、主イエスの死が過越の小羊の死であることを明らかにするために、その死を人びとの計画を超えて早めました。私たちの罪の赦し、神との和解、罪と死の力からの解放、そして新しいいのちに生きるために、主イエスを十字架に架けてくださったのでした。

【ナルドの香油】

主イエスは、昼はエルサレムの神殿で教え、夜は近くのベタニアに泊まっていました。そこへ一人の女の人が来て、主イエスにナルド油を注ぎます。300デナリと言えば、300日分の賃金。約一年間の収入ということになります。壺を割ったのですから、少しでも取っておくことなど考えもしないで、すべてを注いでしまったのです。ここは12章のレプタ二つを献げたやもめを思い出すところです。このときこの女の人に主イエスから、主イエスへの愛があふれ、たいせつな香油を注ぎださせました。そこにあったのは喜び。主イエスもまたこの愛を喜んでくださいました。

【埋葬に備えて】

この女の人がなぜ主イエスに香油を注いだのかは記されていません。彼女が、主イエスの十字架の死を知っていたというのも考えにくいことです。弟子たちでさえ、だれも理解していなかったのですから。けれども主イエスは、この女性の愛を喜ばれました。そして、彼女を責める人びとに対して「わたしのために、良いことをしてくれたのです。」(6)「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました」(8)と、香油と十字架を結びつけ、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」と喜んでくださったのでした。私たちには、よくわからないことが多いです。毎日、置かれた場所でていねいに、と言われても、そんな愛がどのように世界を回復させていくか、見当もつきません。しかし、なしてくださるのは神さまです。私たちに愛を注ぎ、私たちの小さな愛を取り上げ、ご自身の働きの一部としてくださるのです。

【するままにさせて】

この女性を厳しく責めた人びとがいました。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(4-5)と。彼らの言うことは正論です。かといって、女性の愛もまちがっていたのではありません。主イエスが喜ばれたのですから。回復へ向かっているこの不完全な世界では、正しさも一律ではないことを知っている必要があります。完全な正しさなどなく、どれもみな欠けを含んでいると言ったらよいでしょうか。

八幡福音教会が今年、創立60年、記念誌を編集中です。私も一文を寄せました。会堂正面のステンドグラスのピースが一つ裏返しになっているのですが、そこに教会の姿がある、と。精一杯主に仕えるおたがいですが、そこに欠けや弱さは必ず伴います。それをたがいに責めあうのではなく、受け入れ合い、赦し合い、そんな不完全なたがいを支え合うのが教会の姿であり、成長であると。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」(6)と主は今も語ります。