2021年6月20日の説教要旨

2021年6月20日
第三主日
父の日礼拝
説教「惜しむお方」
マルコの福音書14章10-21節

【ユダの裏切り】

「さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった」(10)とあります。祭司長たちがユダに「金を与える約束をした」(10)のはその後ですから、ユダは金の誘惑に負けたのではありません。もっと積極的に、はっきりと意志をもって主イエスを裏切ったのでした。

このユダの姿は先週読んだ、ナルドの香油を注いだ女性の姿とは対照的です。主イエスへの愛があふれた女性。ところがこのときのユダにはそんな愛が感じられません。十二弟子のひとりであるにもかかわらず。ユダがなぜ主イエスを裏切ったのか、聖書は語っていません。もしかしたら、ナルドの香油と関係があるのかもしれません。「すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。』」(4)とあります。ここでは「何人か」と記されていますが、ヨハネの福音書には「イスカリオテのユダが言った。」(12:4)と記されています。この「何人か」の中にはユダも含まれていたでしょう。ユダは「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(5)と正論を言いました。そのとき主イエスは「彼女を、するままにさせておきなさい。」(6)とおっしゃいました。主イエスはユダがまちがっている、と言ったわけではありません。けれども、自分の意見が入れられなかったときに、自分の人格を全否定されたように感じることは私たちにもよくあります。ひょっとしたら、受難週のただならぬ緊張の中で、ユダはそのようなひがみにとらわれてしまったのかもしれません。私たちもまた、主イエスを裏切ったかもしれないひとりひとりであることを思わずにはいられません。

【まさか私ではないでしょう。】

ある牧師は、ユダの裏切りの動機が記されていないことに意味がある、と言っています。なぜならこれはユダだけの問題ではないからです。私たちもまた、それぞれの弱さや欠けによって、切羽詰まった状況の中で、いとも簡単に主イエスを裏入り、たがいを裏切るおたがいだからです。

過越の晩餐の席で弟子たちは悲しくなって、次々にイエスに言い始めました。「まさか私ではないでしょう。」(19)と。彼らは他の弟子を指さして「裏切るのはおまえだろう」と言ったのではありません。「自分が裏切るかもしれない」という不安にかられたのです。彼らはユダのようには、主イエスを裏切ってはいないのですが、ペテロのように主イエスを知らないと言ったり、主イエスを捨てて逃げたりしました。その意味では、彼らの不安は的中したのです。私たちもまた同じ弱さの中にあることを思います。

【生まれて来なければ】

「人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(21)は厳しいことばです。これは、裏切りものには災いが起こるというのではありません。そんな生易しいことではなく、その人の人生そのものが災いとなり、「そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」(21)と言われるような人生となってしまうのです。主イエスを知らなかったら、私たちの人生も災いであったでしょう。ぞっとするような思いがします。

【主イエスの食卓】

けれども、主イエスはユダを含めた十二人といっしょに過越の食事をしました。この食事は、弟子たちがアレンジしたのではありません。二階の大広間を用意してくださったのは主イエス。ユダが裏切ることを知り、他の弟子たちの弱さも知りながら、主イエスはみんなをこの食卓に招いてくださったのです。来週読みますが、この食卓では聖餐が定められ、最初の聖餐が行われます。罪ある弱い私たちを招き、赦し、回復させる恵みが注がれているのです。私たちもその食卓に加わりました。今も、そんな主イエスの招きによって、この礼拝に与っているのです。たとえどんなに裏切っても私たちを手放さない主イエスによって。