2021年6月27日の説教要旨

2021年6月27日
第四主日礼拝
説教「与えるお方」
マルコの福音書14章22-26節

いよいよ最後の晩餐の中心の箇所です。この晩餐の中で最初の聖餐が行われました。教会とはこの聖餐を祝う群れです。今日は聖餐の三つの意味を聴き取ることにいたしましょう。

  • 解放してくださるお方】

最後の晩餐は過越の食事でした。過越の祭りは、エジプトのパロがイスラエルの民を去らせようとしないので、エジプト中の長子が打たれ、小羊の犠牲の血を門に塗ったイスラエルの家だけを神の使いが過ぎ越した神の恵みの記念。小羊の犠牲の血によって、イスラエルはエジプトの支配から解放され、奴隷から自由人になりました。主イエスの十字架は、私たちを罪の奴隷から解き放ちました。私たちを自由な者としてくださったのです。しばしば自分が自由であることを忘れる私たちに、聖餐は自由を思い出させます。

  • 契約の血】

イエスは、「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。」(24)と言いました。この背景にあるのは出エジプト記24章6-8節です。

「モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。 」

エジプトから解放されたイスラエルの民が、シナイ山で主なる神さまと契約を結んだのですが、この契約は人間どうしの契約ではありません。神が一方的にイスラエルをご自分の民にしてくださったのです。雄牛の血はそんな神との交わりが確立した印でした。聖餐で、私たちは神の民、神の子とされていることを思います。私たちがふさわしくないにもかかわらず神さまがそうされたのです。そこはお譲りにならないのです。

主イエスはさらに「多くの人のために」と言いました。主イエスの血は、私だけのためではありません。私を他の仲間と共に神の民としてくださいました。教会です。教会は考え方や感じ方が似た者たちの集まりではありません。キリストの血によって結ばれた者たちの集まりです。そこではちがいは幸いです。自分とちがう人とわかり合い、支え合うことは、苦労であり、痛みをともないます。けれどもそれは神の民の成長の痛みなのです。

  • 大宴会の予告編】

主イエスは「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」(25)と言いました。マルコの福音書のはじめに「時が満ち、神の国が近づいた。」(1:15)と宣言した主イエス。そうして神の国は始まりました。始まった神の国は、いま前進しており、やがての再臨で完成します。世界の破れはつくろわれ、私たちの救いが完成します。そのときのありさまを主イエスは盛大な宴会にたとえておられます。そのとき私たちは主イエスと顔と顔を合わせて、杯をくみかわすのです。喜び合うのです。聖餐はそんな喜びの先取りです。

【聖餐が祝えなくても】

コロナの中で聖餐を祝うことができない日々が続いています。けれども、教会の礼拝の中心は聖餐です。聖餐が祝われない礼拝においてもそうなのです。聖餐がよりはっきりと、目に見える形で見せる神の恵みを、み言葉によって注がれつつ、私たちの旅は続きます。恵みを与え、なによりもそのためにご自分を与えたお方とともに。