2021年7月11日の説教要旨 

2021年7月11日
第二主日礼拝
説教「祈るお方」
マルコの福音書14章32-42節

十字架前夜、ゲツセマネの祈りの箇所となりました。最後の晩餐が終わり、十字架はそこまで迫っています。この夜の主イエスから祈りを学びましょう。

【悩むイエス】

主イエスは自ら決意をもって十字架に向かって進んで来られました。けれども主イエスは捕らえられ、十字架で殺されることにも平気であったのではないのです。マルコは「イエスは深く悩み、もだえ始め」(33)、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(34)と記します。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」(36)と父に願い、弟子たちにも「ここにいて、目を覚ましていなさい。」(34)とそばにいて、支えてほしいと頼みました。すぐに眠りこけてしまうあてにならない弟子たちをあてにしないではいられないほどの悲しみに悩まれたのでした。

「悲しみのあまり死ぬほど」と言った主イエス。この言葉は「わたしのたましいは死ぬほどにうなだれる」という意味。実はこのことばは、主イエスが詩篇を意識して言ったと考えられています。詩篇42篇と43篇は、もとは一つの詩篇であったようですが、このように繰り返されています。

42:6 私の神よ   私のたましいは私のうちでうなだれています。

42:11 わがたましいよ なぜおまえはうなだれているのか。

43:5 わがたましいよ なぜおまえはうなだれているのか。

詩篇42-43篇は「なぜあなたは私を退けられたのですか。」(43:2)と悩む詩人の作。ですから主イエスはこの詩人にこころを重ね合わせて、ご自分が神に退けられた、捨てられた、と悩んでおられるのです。うなだれ、苦しんでおられるのです。

【私たちのために】

 私たちもしばしばうなだれ、悲しみます。苦しみます。そんな私たちにとって、主イエスが私たちと同じように苦しんでいることは、慰めです。私たちの苦しみは主イエスに知られているのです。主イエスも体験してくださったのです。私たちだけを苦しみの中に放っておくことができずに、神が私たちのひとりとなって私たちの苦しみを共に担ってくださったのです。

けれども主イエスの苦しみと私たちの苦しみにはちがうところもあります。第一に主イエスは父に見捨てられたのですが、私たちはそうではありません。父のさばきのほろびを経験したのは主イエスだけなのです。第二に、主イエスの苦しみは私たちを苦しみから解き放つためでした。主イエスは私たちを苦しめる悪の力、罪と死で私たちを苦しめる悪の力をほろぼし、私たちを愛と喜びに生きる神の子にしてくださったのでした。そのために、悩み、もだえ、うなだれ、悲しみ、苦しんでくださいました。私たちを神の子としてくだるために。

【祈るイエス】

主イエスの祈りは短いものでした。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(36)です。この「しかし」は私たちの胸にこたえます。主イエスは父に十字架の苦しみを取り去ってくださることを願いました。何でもできる父にはそれができるからです。けれども、祈りの中で、主イエスのもっと深いところにある願いが鮮やかになりました。父の望みが行われることです。主イエスが十字架に架けられ、それによって私たちが救われることです。主イエスを救うことができる父が、主イエスを救うことがないように、と主イエスは願ったのです。私たちのために。

なぜ、そのようなことができたのでしょうか。答は「アバ、父よ」(36)という呼びかけにあります。アバは幼い子どもが父を呼ぶ、ごく親しいことば。「パパ」という感じでしょうか。主イエスはこの苦しみの中でもいつものように「パパ」と呼び続けました。父と子のこのきずなは断たれることがありませんでした。十字架は父と子の断絶。けれども捨てられ断絶されても、父と子の愛と信頼は断絶されなかったのです。だからこの願いたくない願いを祈ることができたのでした。父と子はひとつ。十字架の死とさばきも分かつことができないきずなで一つでした。

【私たちの祈り】

弟子たちは、支えて欲しいという主イエスの願いにもかかわらず眠りこんでしまいました。三度も。けれども主イエスの「一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。」(37)は弟子たちを責める言葉ではありませんでした。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」(38)も叱咤激励ではありません。「霊は燃えていても肉は弱いのです。」(38)と主イエスは私たちの弱さをよくご存じだからです。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。」(41)もまた「いつまで寝ているのか!」という𠮟責ではないと思います。私にも経験があるのですが、あまりに悲しいときには、むしょうに眠くなるということもあるようです。こころが休みを求めて、活動を停止してしまうように。主イエスはそんな私たちをあわれみのまなざしで見てくださっています。祈ることができない、目を覚ましていることができない私たちは主イエスのあわれみから漏れていないのです。

ですから主イエスの「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」(37)は私たちを招く言葉です。それは単に心にかたく決心するだけではできないことです。私たちの深いところに目覚めが起こり、心ばかりではなく、私たちの存在に、父と子への愛と信頼が沁みとおっていくことが必要です。私たちのための十字架を願うことにおいてひとつであった父と子の愛が、みことばを通して、聖霊によって、そうしてくださいます。そうしてくださっています。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」の祈りがもう始まっているのです。