2021年7月18日の説教要旨

2021年7月18日
第三主日礼拝
説教「支えるお方」
マルコの福音書14章43-52節

先週は十字架前夜、ゲツセマネの祈りの箇所を読みました。主イエスは深いかなしみを味わいました。父に捨てられる悲しみです。けれども、主イエスは自ら決意をもって十字架に向かって行かれました。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」(36)と。そこには私たちのためには何も惜しまない愛がありました。

【裏切りのユダをも】

「ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。」(45)とあります。

口づけは当時のユダヤ人の間では普通のあいさつ。特に、律法の教師であるラビに弟子たちは、愛と尊敬を込めて口づけしました。ところがユダは口づけを裏切りのために用いたのでした。主イエスはこの口づけを受けました。裏切りの口づけから顔を背けることをせず、裏切りのユダをなおも弟子として受け入れたのでした。そういえば、マルコの福音書はユダのことを繰り返し「十二人の一人であるユダ」と語ります。たとえば10節にも「十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった」と。ユダは最後まで弟子の一人として扱われているのです。

私たちは弱いです。眠り込み、裏切り、逃げ出す弟子たちのように。けれどももっとも弟子に値しないユダを主イエスは弟子として扱いました。裏切りの最中にもユダを見つめ、斥けませんでした。主は私たちも斥けることはありません。どんなに最低な裏切り行為の最中にも。主イエスにはそんな覚悟があり、その覚悟を貫くのです。

【そばに立っていた一人】

「そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。」(47)とあるのは、ほかの福音書からすれば、ペテロのことです。マルコは裏切りのユダを十二弟子と呼びながら、弟子たちの筆頭であるペテロを「そばに立っていた一人」と記すのです。もちろん主イエスはペテロが弟子であることを斥けたのではありません、ペテロが主イエスの弟子であることを自ら斥けてしまったのでした。

剣を抜いて、ローマに抵抗することは勇ましいようでいて、その反対です。弟子としての勇気は、剣で人を傷つけることではありません。捕らえようとする人々に対して、主イエスと共に進み出て、いっしょに捕らえられる、それがほんとうの勇気。主イエスを信頼して、主イエスに背負われて。けれども、ペテロは恐怖に支配され、剣をふりまわしました。主イエスへの信頼はふきとんでしまって、自分が主イエスの弟子であることも吹き飛んでしまったのでした。「そばに立っていた一人」になってしまったのです。しかし主イエスは、ペテロを弟子として見ておられます。それは十字架の上からも変わることはありませんでした。

【裸で逃げた青年】

「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」(50-52)の青年はマルコだと言われてきました。おそらくまちがいないと思います。マルコは自分の恥ずかしい姿を描き、後世に残しました。マルコが望んだのは、そんな自分を主イエスが見捨てずに支え続けてくださり、赦し、成長させ、福音書記者として立たせてくださった喜びを伝えるためでした。すべての人を支えてくださるお方・主イエスを知れ、喜べと伝えたのです。

【聖書の成就であるお方】

裏切るユダ、恐れて暴れるペテロ、裸で逃げ出すマルコ。そんな中で、ただ主イエスおひとりだけは、堂々と十字架への道を歩んでいかれます。その理由は「しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」(52)にあります。主イエスは十字架が聖書の成就、すなわち父である神のみこころであることをはっきりと知っておられました。父との関係の中で、父のみこころの中を堂々と歩むことがおできになったのです。

その主イエスが私たちを支えてくださいます。堂々と歩めない私たちを支え、転びながらも歩ませてくださるのです。