2021年8月1日の説教要旨

2021年8月1日第一主日礼拝 説教「立ち上がらせるお方」 マルコの福音書14章66-72節

いよいよ胸が痛くなるようなできごとの箇所です。四つの福音書が共通して記している「ペテロの否認」です。ここを読むとき、私たちは「自分はペテロのようにならないだろうか」と考えます。そして「自分も同じようになってしまうかもしれない」と思ってうなだれるのです。

【従ったペテロ】

「ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。」(54)とあります。ここで「イエスの後について」とあるのは「弟子としてイエスに従う」という意味のことばです。他の弟子たちがみな逃げてしまう中で、それでもペテロは主イエスについて行きました。遠くからではありますが、それでもペテロは主イエスを心配しました。主イエスの弟子でありたいと願ったのです。そのことは認めてもよいのではないかと思います。私たちも迫害の時代になったら、主イエスに従うことができるだろうか、と惑います。けれどもそもそも信仰者でなければ惑わないのです。惑いながらも私たちは主イエスの弟子たちなのです。

【恐れるペテロ】

大祭司の召使の女が「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」と言います。けれども、この言葉は正確には、「あなたもあのナザレの人といっしょだったんじゃないの。イエスとかいう。」という軽い口調のものでした。ところがペテロは恐れをかきたてられ、「何を言っているのか分からない。理解できない」(68)と言って前庭に逃れようとします。それがこの女性の不審をつのらせたのでした。ペテロはこの恐れのモードに入り込んでしまい、ついには自分の言うことが噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」(71)と言ったのでした。恐れの中で、主イエスとの関係を完全に否定してしまったのでした。

【泣くペテロ】

では、こんなことになるくらいなら、ペテロはそもそもイエスの後について大祭司の家の庭に行かなければよかったのでしょうか。じっと隠れていたほうがよかったのでしょうか。もちろんちがいます。

ここで思い出されるのは、マルコが5章に記している「十二年の間、長血をわずらっている女の人」です。

彼女は主イエスに癒していただきたいと願いました。しかし自分のことはだれにも知られたくなかったのです。けれども、主イエスはそのままにしておかれませんでした。女性は好んだのではないのですが、人びとの前で告白をします。ただ癒されたくて触ったのだと。けれども主イエスはそれをこの人の信仰とみなしてくださいました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」(5:34)と宣言しました。イエスが彼女との関係を造り出し、彼女をご自分の弟子としてくださったのです。

主イエスはいつも私たちとの関係を造り出したい、造り出したなら、なお深めたいと願っておられます。遠くから後について行ったペテロにも。それが遠くであったことを責めることはなさいません。もっと近くへと招いてくださいます。三度主イエスを否認したことも責めることをされません。そこからはじまって、もう一度主イエスに立ち帰るようにと招いてくださっているのです。

思えば、主イエスは最初からペテロの否認を知っておられました。ペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」(72)と、イエスが自分に話されたことを思い出したのですから。ペテロがご自分との関係を絶つであろうことを、主イエスはご存じでした。知ったうえで、ペテロを愛し通してくださいました。十字架の上でも、ペテロの恐れを、その裏切りを負ってくださったのです。ペテロの涙は後悔の涙であり、絶望の涙でした。けれども主イエスの十字架と復活によって、ペテロは主イエスを喜ぶことになります。自分の裏切りさえも主イエスの愛の証しとして語ることができるようになるのです。そうさせたのは主イエスです。

迫害の時代に自分が主イエスを裏切るかもしれない、と思ってうなだれてはなりません。たとえ私たちが裏切ったとしても、なお私たちは主イエスの愛の中にいます。そこから何度でも立ち上がり、その都度主イエスとの関係を深めていただくことができるのです。