2021年8月8日の説教要旨

2021年8月8日
第二主日礼拝
説教「交換するお方」
マルコの福音書15章1-15節

受難日の朝がやってきました。ローマ総督ポンテオ・ピラトは、この朝の裁判によって、聖書と使徒信条にその名を残すことになりました。けれども、それはピラトが悪人であると断罪するためではありません。主イエスの恵みを鮮やかにするためです。今朝もその恵みに聴きましょう。

【憎む大祭司たち】

普通ならローマはユダヤ人の宗教問題には口を出しません。多くの民族からなるローマ帝国を治めるコツは、そこには触れないことにあるからです。大祭司をはじめとするユダヤの宗教的指導者たちはそれを心得ていました。そこで主イエスをローマへの政治的反逆者として訴え出ることにしたのでした。反逆罪に対する刑は十字架です。彼らは手足を釘で打ちつけられて苦しみながら死んでいく主イエスを見たいと思いました。それだけではありません。申命記にはこうあります。「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」(申命記21:23)。大祭司たちは主イエスを神に呪われた者として死なせたかった!なんとも胸が痛みます。人となって来てくださった神をそんなにも憎むなんて。この憎しみは、民衆の心が自分たちを離れて主イエスに向かっていたからでした。彼らは人びとの心をつなぎとめようと、必死になりました。自分たちの居場所を守るために。私もまたそうしたかもしれません。自分の居場所を守ためには。

【問われるピラト】

ピラトはイエスに問います。「あなたはユダヤ人の王なのか。」(2)これは単なる質問ではなかったかもしれません。ピラトにとって王というのは、軍隊を率いた力ある存在です。ただ一人で捕らえられ裁かれているイエスなど王であるはずがない、そんな嘲りが含まれた言葉であったのかもしれません。

そのピラトに主イエスは「あなたがそう言っています。」(2)と答えます。これではよくわかりませんが、ここは「それ(わたしがユダヤ人の王であるかどうか)は、あなたが言うことだ。あなたに問われていることだ」という意味なのです。つまりここで問われているのはイエスではなく、ピラトなのです。その後、主イエスは何も答えようとされませんでした。ピラトはそれに驚くのですが、主イエスは、ピラトの、そして他の人びとの答を待っておられました。その問いはマルコを読む私たちにも問われています。「わたしがユダヤ人の王、すなわちユダヤに現れた世界の救い主であることをあなたはどう判断するのか。受け入れるのか」と。

言うまでもなく、私たちはすでに主イエスを世界の王として受け入れました。けれども、主イエスを受け入れることは受洗を決心するときのただ一度だけのできごとではありません。日々私たちは選択を迫られます。大小さまざまな選択の中には、主イエスを世界の王とするかどうかによって、選択が違ってくる場合もあります。そのとき主イエスは私たちに「あなたはこのことにおいても、わたしを王とするか」と問うのです。もちろん、私たちはそうありたいと願っています。

【失敗した人びと】

主イエスの問いに対してピラトは失敗しました。「祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていた」(10)にもかかわらず、祭司長たちに扇動された群衆を満足させようとして、「バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」(15)のです。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」(14)と主イエスの無罪を知っていたにもかかわらず。

私たちもしばしば失敗します。その原因は無知と弱さ。選択を迫られるときに、主イエスを王とする選択はどれかがわからないので、失敗するのが無知。正しい選択を知っているが、それを選びたいのに選べないのが弱さです。たいていはこの二つが組み合わさり、私たちは失敗するのです。主イエスを王とすることを。

【交換するお方】

こうして無実の主イエスは十字架で死刑となり、反逆罪のバラバは解放されました。不公平なことです。あってはならないことです。けれども神はそこからすばらしいことを生み出しました。イザヤ書53章です。

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

無知や弱さ、そこから起こる主イエスを王とすることができない失敗のダメージは、私たちにしみついていて、自分ではどうすることもできない病のようなものです。主イエスはそんな私たちの病を負い、私たちを癒してくださいました。主イエスの健やかさと私たちの病を交換してくださったのでした。

十字架は三時間ほどでしたが、私たちの癒しは時間をかけて起こります。時間をかけて、私たちの内の深いところで。神のおこころを知り得ない無知は、聖書や仲間を通して、神を私たちのたましいの深いところで知ることによって、癒されつつあります。主イエスを王とできない弱さは、王の力が深く広く高く及ぶありさまを仲間とともに体験することによって、癒されつつあります。今このときも、主イエスの交換は進行中なのです。