2021年8月15日の説教要旨

2021年8月15日
第三主日礼拝
説教「十字架を負うお方」
マルコの福音書15章16-32節

主イエスの十字架。マルコは淡々と筆を進めるのですが、その理由がわかるような気がいたします。私たちは十字架の記事を読むのはつらいです。マルコも同じようにつらくて、それでもどうしても伝えなければならないと思って、なんとか書き抜いたことが感じられます。マルコが伝えようとしたことを、私たちも読まなければなりませんが、つらいので、できるだけドライに、箇条書きで記したいと思います。

【十字架の苦しみ】

  • 「イエスはむちで打ってから」(15)ローマ兵に引き渡されました。十字架刑が決まった囚人には何をしてもよかったようです。主イエスの場合は特に「全部隊を呼び集め」(16)ての虐待でした。「ユダヤ人の王」を名乗る反逆者だということで、暴行はエスカレートします。さらに精神的な屈辱が加えられました。紫の衣は王のしるしですが、ローマ軍の赤いマントを代用したのでしょう。また王冠の代わりに、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼したのでした。
  • 十字架刑に処せられた者は、十字架を自分で運ばなければなりません。クレネ人シモンが負わされたことは、ローマ兵たちのそれまで虐待の苛烈さによって、主イエスが弱り果てていたことを示しています。
  • 十字架は太くぎで打ち抜かれた手足の痛みと出血によって長時間の苦しみを味わわせる刑ですが、あまりの苦しみをやわらげるために麻酔効果のある「没薬を混ぜたぶどう酒」(23)が用意されていました。けれども主イエスは断りました。十字架の苦しみを、父なる神から与えられる杯として、そのすべてを飲み干されたのでした。
  • さらなる精神的な苦しみが加わります。ピラトは罪状書きに、「ユダヤ人の王」(26)と書かせて愚弄しました。主イエスの両脇には二人の強盗。彼らと同じ犯罪人だというのです。通りすがりの人たち、祭司長たちも律法学者たちは「十字架から降りて自分を救え」とあざけりました。それは「おまえの生涯には何の意味もなかったのだ」と断じて、主イエスを絶望のうちに死なせようとする仕打ちでした。

【無知と弱さとダメージと】

 先週もお語りしました。ピラト、ローマ兵たち、祭司長たち、民衆が、主イエスを苦しめる原因は深いところにあります。主イエスが神であることがわからない無知。自分の居場所を守ろうとする恐れ。そして自分と他人の罪によって受けたダメージから生じる憎しみや残忍さ。これらがもつれあって自分ではどうすることもできなくなっているのです。そして、「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」(31-32)と神である主イエスを罵り、神を見下げました。私たちも、自分と他人の罪によって受けたダメージから生じる憎しみや残忍さ、これらがもつれあって自分ではどうすることもできなくなる点では同じです。けれども、主イエスはそのもつれを負ってくださいました。私たちをもつれの中に放っておくことができなかったからです。

 詩篇22編には、こうあります。

しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的 民の蔑みの的です。

私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。

「【主】に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」(詩篇22:6-8)

父なる神は、御子キリストの十字架を前もって予告しておられました。主イエスの十字架は父のおこころでした。私たちのために何も惜しむことをされなかった父と子の愛に、ただ私たちは立ち尽くすのみです。十字架のふもとに。

【歩み出す私たち】

 立ち尽くす私たちは、主イエスが復活なさいましたから、歩き始めることができます。主イエスと共に。

 8月6日の広島原爆、8月9日の長崎原爆を思うとき、私たちは立ち尽くし、絶望に似た思いにとらえられます。実は、今年初めて「長崎の鐘」で知られる永井隆博士の「原子爆弾合同葬弔辞」(1945 年 11 月 23 日)にふれる機会がありました。博士はこう語りました。

……信仰の自由なき日本に於いて迫害の下四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会(爆心地です)こそ神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き羔(こひつじ)ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万人の 人々が救われたのであります。戦乱の闇まさに終わり、平和の光さし出ずる 8 月 9 日、この天主堂の大前に炎をあげたり、嗚呼大いなる燔祭よ! 悲しみの極みのうちにも私たちはそれをあな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎ見たのでございます。

この考え方には多くの批判もあります。これでは原爆を肯定することになってしまう、など。私も納得はできません。とても痛々しくて。けれども同時に、「神さまはここからすばらしいことをしてくださる。十字架に架けられた子羊主イエスを復活させ、世界を回復なさる神さまは、このことを決してむだにはなさらない」という信仰が伝わってくることは確かだと思います。

 長崎の原爆投下で、浦上天主堂は壊滅しましたが、不思議にも聖堂の尖塔の鐘が瓦礫の中で守られていました。その年のクリスマスイブに、その鐘が釣り上げられて鳴らされました。永井博士 はそのこと次のように記しています。

「カーン、カーン、カーン」澄みきった音が平和を祝福して伝わってくる。

事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘に なることがないように、世界の終わりのその日の朝まで平和の響きを伝えるよう に、「カーン、カーン、カーン」とまた鳴る。

人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類 に自殺行為にしかならないのだ。

 原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。

戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って相互に協商せよ。

浦上人は灰の中に伏して神に祈る。願わくば、この浦上をして最後の原子野たらしめたまえ。鐘はまだ鳴っている・・・・。

(随筆:「長崎の鐘」より)

 悲しみの中でも、憎悪に縛られるのではなく、平和を訴え、祈りつつ、行動して行く。ここに主イエスと共に歩む生き方があります。私たちもまたそんな歩みに入れられています。