2021年9月5日の説教要旨

2021年9月5日
第一主日礼拝
説教「復活されたお方」
マルコの福音書16章1-11節

愛する兄弟を葬った私たち。この時期、不思議なように主イエスの死と葬り、復活の記事を読んでいます。続いて神さまのみ声を聴きます。

【復活の朝に】

「週の初めの日の早朝」(2)とあります。金曜日に十字架に架けられて日没前に葬られた主イエス。金曜日の日没から土曜日の日没までは安息日。だれも活動することはできません。「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」(1)とあります。安息日が終わるのを待ちかねるようにして、女性たちは香料を買いに行きました。けれども、夜ですので、主イエスのところに行くことができません。そこで日曜日の夜明けを待って、墓へと急いだのでしたのでした。マルコはこの女性たちの愛をきちんと記しています。このいてもたってもいられない愛によって、女性たちは復活の証し人とされた、と。

【感じとる愛】

マルコがこのように女性たちの愛をクローズアップしているのには理由があります。それはこの女性たちの愛が、主イエスに対する真実な関わり方を見せてくれている、ということなのです。この女性たちは、主イエスが死んで葬られて、もう会うことができないという事実を受け入れることができませんでした。あきらめることができませんでした。だから墓に行きました。香料を買ってそれを主イエスの体に塗りたいと思いました。主イエスの体が朽ちていくことを惜しんだのです。そんなことには耐えられないと思ったのです。主イエスをこれ以上、失いたくなかったのです。

昔、見た映画に「考えるな、感じろ」と主人公が言うシーンがありました。ペテロをはじめとする弟子たちの主イエスとの関わり方は、「考える」関わり方だと呼べるかもしれません。この方こそ救い主、イスラエルに回復をもたらしてくださるお方、と信じて従った弟子たちの信仰は、理性的・意志的なものであったということができるでしょう。しかし受難の金曜日、彼らの「考える」関わり方は、粉みじんになりました。全員が逃げ去ることになったのです。

弟子たちが逃げ去った後に、残ったのは女性たちでした。彼女たちの「感じとる」関わり方、感じとる愛は、主イエスの死にも葬りにも動かされることがありませんでした。彼女たちは復活を明確に信じていたわけではありませんでした。けれども、主イエスの不在がおかしなことだ、異常なことだ、という感覚を持ち続けました。弟子たちが積極的・能動的に主イエスに関わったとするならば、彼女たちは、消極的・受動的に主イエスに関わったということもできるでしょう。主イエスの不在の三日間、危機にあった主イエスに従う者たちを支えたのは、この消極的・受動的な「感じとる」関わり方だったのです。

【考えて、感じよ】

弟子たちの「考える」関わり方と女性たちの「感じとる」関わり方、そのどちらかが正しく、どちらかが間違っているのではありません。主イエスを救い主と告白し、言葉に出して宣教する「考える」人。やわらかい心で主イエスを感じとり、感じとったことがその人をかたちづくり、兄弟姉妹を支えていく「感じとる」人びと。どちらも教会には欠くことができない人びとです。

さらに言うならば、私たちは「考える」人か、「感じとる」人か、とどちらかに分類できるわけではありません。「考え」「感じとり」ながら、主イエスは「そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」(マルコ12:33)と招きました。私たちは、心も知恵も尽くして主イエスを愛します。そして隣人を愛します。そうしながら、さらに大きな心と知恵へと成長させられていきます。

【復活の明日に】

感じとった女性たちは主イエスの復活の証人となりました。復活を信じることができないのは当然のことです。けれども死への違和感を感じとることに鋭敏でいましょう。そして、愛する兄弟をそのままにはしておかれない主イエスの愛を語り聞かせ合いつつ、復活の明日に向かって進んでいきます。もうそうしているのです。復活されたお方によって。