2021年9月12日の説教要旨

2021年9月12日
第二主日礼拝
説教「会うお方」
マルコの福音書16章1-8節

主イエスの復活の記事を先週に続いて読んでいます。今朝は、墓にはおられなかった主イエスの恵みを聴きましょう。

【非常に驚いた人びと】

「墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。」(5)とあります。この「驚いた」という言葉は、主イエスのゲッセマネに記事にも出てきます。口語訳では「恐れおののき」と訳していた言葉です。イースターの朝、女性たちはただびっくりしただけではありません。恐れを感じたのです。恐ろしさを感じたのです。私たちは神さまを信じたら心に平安がある、とよく言います。それはもちろんそうなのですが、けれども、神さまを私たちのコントロールできる範囲におさめることはできません。神さまは私たちが期待する以上のことをします。そんな思いがけない神のわざを見るとき、私たちは驚き、恐ろしさを感じます。この女性たちも、主イエスの復活という世界を揺るがす神のみわざの前に驚き恐ろしさを感じました。あまりにすばらしいことが世界に始まったからです。私たちもそんな世界に生きています。神さまを心の平安だけに小さくしてしまってはならないのです。

【ここにはおられません】

聖書は主イエスが復活するありさまを詳しく記してはいません。たいせつなのは主イエスが死んだままではいなかった、ということにあるからです。

女性たちは香料を買い求め、夜明けを待って墓へと急ぎました、主イエスのお体のお世話をし、主イエスを目に焼き付け、思い出の中ででも慕い続けようと願ったのでした。ところが、彼女たちのそんな願いはかないませんでした。神さまが奪われたのです。主イエスは思い出の中で慕われるのではなく、よみがえって、死んだお方としてではなく、生きたお方として私たちに会うお方なのです。

毎週、愛するひとりの兄弟について語ってしまうのですが、彼もまた復活して、生きた人として私たちに会うことになります。その墓もまたからになるためにあるということを、覚えておきたいと思うのです。

【主イエスと会う場所】

「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」(7)彼女たちは告げられます。弟子たちが主イエスに会う場所はガリラヤなのです。ガリラヤは弟子たちの故郷です。主イエスに従いぬくことができなかった彼らは、すごすごとガリラヤに帰っていかなければなりません。「弟子たちとペテロに」とペテロの名がわざわざ呼ばれているのにも意味があるのでしょう。三度、主イエスを知らないと言ったペテロ。完全に主イエスとの関係を否定し、放棄し、断ち切ったペテロに「そこでお会いできます」と告げられたのです。ペテロが関係を断ち切ろうとしても、主イエスはそれを許しませんでした。主イエスにはペテロを見捨てることなど決してできないのです。そうするのには、あまりにもペテロを愛しているからです。

ここに信仰とはなにかを見ることができます。ペテロが「自分は決して裏切りません」と意気込んでいたとき、彼は信仰者のように見えました。けれどもその熱心が打ち砕かれ、自分など信仰のかけらも持ち合わせていないと悲しみながらガリラヤに帰って行きます。そのガリラヤで、主イエスは先回りして待っていました。ペテロが裏切った主イエスが、復活してまずなさりたかったことはペテロに会うことだったのです。会って、ペテロに信仰を与えることだったのです。

私たちもこのように信仰を与えていただくのです。失敗し、罪を犯し、裏切り、失望し、悲しむそのときこそ、主イエスが会ってくださいます。そして私たちの中に信仰を作りだしてくださいます。そうして作りだしてくださる信仰は、それ以前の信仰よりも、より深い主イエスへの信頼に根差すものです。私たちの側のどんなみじめさも、主イエスが私たちに会うことのさまたげには、なり得ないことを知らされているからです。