2021年9月19日の説教要旨

2021年9月19日
第三主日敬老礼拝
説教「祝福するお方」
マルコの福音書16章9-20節

昨年のはじめから読んできた、マルコの福音書もいよいよ今日で最終回となりました。マルコの連続説教をしていると言うと、必ずといってよいほど訊かれることがあります。それは「今日の箇所、16章9-20節も説教するのですか?」ということ。

お手元の聖書をご覧ください。8節のあとに[ ]、こんな角ばったかっこ(かくかっこ)で囲まれた「彼女たち」で始まる4行があります。脚注には「[ ]内は短い補遺(ほい)。少数の異本にある」とあります。印刷術が発明されるまでは聖書は手書きで写されていました。写本です。その中には、ほかのとは少しちがう写本があって、それが異本です。

また、その後には9-20節にわたる長い補遺が載っています。今日の箇所です。脚注には「9-20節を加える写本は多いが、重要な写本には欠けている」と。ですからどうやら、短い補遺も長い補遺ももともとのマルコの福音書にはなかったようなのです。だから、この部分は神のことばである聖書なのかどうなのか、という議論があります。それで、「今日の箇所、16章9-20節も説教するのですか?」という問いが生まれるわけです。

私はこの箇所から説教することにためらいはありません。理由は、これらの補遺は、補遺とはいえ、かなり早い時期、おそらく紀元百年ごろ、主イエスに直接お会いした人びとが存命中に加えられたことにあります。主イエスの福音のたいせつなことがらがここにも描かれている、そう考えるのです。

【信じなかった人びと】

この箇所には信じなかった人びとが続けざまに登場します。「彼ら(イエスと一緒にいた人たち)は、イエスが生きていて彼女(マグダラのマリア)にご自分を現された、と聞いても信じなかった。」(11)、また「その二人(徒歩で田舎に向かっていたときイエスが別の姿でご自分を現された二人)も、ほかの人たち(弟子たち)のところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。」(13)。ですからこの補遺が加えられた目的は、信じるということについて、最後に一度、補足説明を加えることでした。

彼らが信じなかったのは「イエスが生きておられる」(11)、「イエスが会ってくださったこと」(13)でした。なぜ復活したイエスが生きておられることを信じなかったのか。それはイエスが生きておられることを期待しなかったから。自分たちの悲しみと恐れをのぞき込んで、主イエスに期待することができずにいたからでした。

【心をお責めになった主イエス】

イエスが生きておられること信じなかったそんな人びとを、主イエスは厳しく責めました。けれども主イエスが責めたのは、彼らの行いではなく心でした。主イエスは彼らが、十字架を前に主イエスを捨てて逃げたことを責めませんでした。そうではなくて、復活した主イエスが生きておられることに心を閉ざしている、その「頑なな心」を責めました。自分の悲しみと恐れをのぞき込んで、復活の主イエスに心を開かない、その頑なに閉ざした心を責めたのでした。ですから主イエスの願いは、彼らが心を開くことでした。心を開いて、悲しみと恐れでいっぱいの自分たちの心に、主イエスを入れることを、主イエスが願ってくださったのでした。

【すべての造られたものに福音を】

新改訳2017聖書では、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(15)とありますが、協会共同訳聖書では「すべての造られたもの」となっています。こちらは人間だけではなく、世界の全ての被造物を対象にしていて、よりよい訳といえるでしょう。「その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」(18)とあるもの、全被造物に主イエスの支配が及んでいることを表わしているからです。つまり、福音を宣べ伝えることは、ただ、言葉でイエスが救い主であることを宣言するだけではありません。回復に向かっているすべての被造物に、主イエスの支配が実現していくように。言葉とわざで、主イエスと共に働くことです。

それは「信じてバプテスマを受ける者」(16)である私たちを通して進んでいきます。「主は彼らとともに働き」(20)とあるように、主イエスがそうしてくださるのです。