2021年10月10日の説教要旨

2021年10月10日第二主日礼拝 説教「証しされた神」 ヨハネの福音書1章6-13節

これまでの2回、ヨハネの福音書の冒頭の部分から聴きました。そこでは①「言(イエス・キリスト)」は人格的な存在であること②イエス・キリストは天地創造に関わっていたまことの神であること③イエス・キリストは私たちを生かすいのちであり、暗闇にいる私たちを照らす光である、ことが語られていました。今日は続く部分から聴きます。

【天から地へ】

「言」「いのち」「光」など天的な語を用いていたヨハネは「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。」(6)と地上のひとりの人に視点を移します。抽象的ともいえる5節までが、実際に地上に力を及ぼすさまが6節以下に、描かれるのです。

ここでもヨハネの福音書は他の三つの福音書とは異なる記し方です。他の福音書ではバプテスマのヨハネは、罪を責めて、人びとに悔い改めを促し、悔い改めのしるしとしいて洗礼を授けました。ところがこの福音書では、「この人(バプテスマのヨハネ)は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。」(7)とあります。この福音書におけるバプテスマのヨハネの視線は「言」「いのち」「光」である主イエスに注がれています。そして私たちの視線も持ち上げさせて主イエスを見させようとするのです。私たちは証しというと、自分の信仰の体験談という意味で使うことが多いと思います。それはいいのですが、問題はそこで主イエスに視線が向けられていることがたいせつです。

【証しするということ】

このように、証しとは、光である主イエスを指し示すことなのですが、それはただの客観的な知識を伝えることとは異なります。証しは決断を迫ります。11節には「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

」とあり、12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。証しを聞いた者たちの反応はふたつに分かれます。光を見せられるときに、その光の中にとどまるか、それとも暗闇の中に戻るか、に分かれます。

「すべての人を照らすそのまことの光」(9)とあります。それなのに受け入れない人がいるのは不思議でもあり、痛みでもあります。けれども最も痛んでおられるのは神さまであること、そして、神さまはどこまでもあきらめないで照らし続けてくださっていることを覚えておきたいと思います。

【神の子どもとなる特権】

「子どもとなる特権をお与えになった」(12)とあるとおり、神の子となることは、神から与えられた特権です。そもそも特権というのが、権威をもっている人から与えられるものです。ここに自由意志と神さまのあわれみの緊張関係があります。キリスト教会ではずっと二つの立場がありました。①私たちは自由意志で救いを選び取ったから救いに入れられた②私たちが選び取ることができたのは神の予定による、この二つです。けれども、この二つは補い合うことによって、私たちへのより大きな神さまの愛を浮かび上がらせているように思えます。私たちが選び取ったといえばそうなのだけれども、けれども私たちが選び取るには神さまが、ずっと語りかけ聖霊によって励まして、選び取らせてくださったこと。また、神さまの与えた特権という意味では、神さまの予定と言えなくもないのだけれど、やはり神さまは私たちに選び取る余地を残しておられるのです。神さまの愛は大きくて、言葉では語りつくすことができません。神さまは私たちの意志に呼びかけながら、同時に応答する力も注いでくださっています。神さまの大きな愛は、今は応答することができない人びとにも、注ぎ続けられています。すべての人を、あきらめきれないあわれみのゆえに。御子を十字架に架けるあわれみのゆえに。そのあわれみに気づくことの妨げに、神さまは忍耐強く優しく取り組んでいてくださいます。

【証し人として】

主イエスは、バプテスマのヨハネは「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」(5:35)だと言いました。私たちも主イエスの置かれた場所で光として輝いて、主イエスを指し示します。主イエスを見上げる姿勢によって、主イエスを証ししているのです。